高千穂さんのご縁です。高千穂さんのご縁です。

高千穂さんのご縁です。

RKKラジオ

仏教にまつわる色々なお話を、分かりやすくお話していただく番組です。仏教由来の言葉、豆知識、歴史、迷信、風習、教義、作法などなど。出演は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正さん。お相手は、丸井純子さん。お悩み相談もメールで受け付け中!goen@rkk.jp▼メールgoen@rkk.jp★地上波ではRKKラジオ(熊本)FM91.4AM1197で、毎週水曜日午後6時10分から放送中。是非生放送でもお聴きください。

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エピソード

【仏教とハワイ】──サトウキビ畑から広がるお念仏と支え合いの歴史

【仏教とハワイ】──サトウキビ畑から広がるお念仏と支え合いの歴史

【仏教とハワイ】──サトウキビ畑から広がるお念仏と支え合いの歴史

🔶ハワイ移民の歴史と「元年者」から「官約移民」へハワイにおける仏教の歴史は、アメリカに併合される以前のハワイ王国時代、サトウキビ農園の労働力として渡った日本人移民の歴史と深く重なっています。19世紀半ば以降、ハワイにはサトウキビ農園の労働力として、中国、日本、ポルトガル、プエルトリコなど、世界各地から多くの移民が渡るようになりました。1868年(明治元年)、約150人の日本人労働者がハワイへ渡りました。日本からハワイへの最初の組織的な集団移住とされ、明治元年に渡航したことから、彼らは「元年者(がんねんもの)」と呼ばれています。その後、日本とハワイ王国両政府の取り決めに基づき、1885年(明治18年)から政府公認の「官約移民」が始まりました。1886年(明治19年)には、日本人移民の待遇や保護などを定めた日布渡航条約が正式に締結されました。出稼ぎを目的とした移民には、広島、山口、熊本など、西日本の農村出身者が多く含まれていました。さらに1900年以降は、沖縄からも多くの人々がハワイへ移住しました。20世紀初頭には、日本人はハワイのサトウキビ農園労働者の中で、最大規模の集団となりました。🔶開教使の派遣とハワイ本願寺の誕生過酷な労働環境に置かれた移民たちの心のよりどころとして、1889年(明治22年)、浄土真宗本願寺派の僧侶・曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡り、日本人移民を訪ねて布教巡回を行いました。1897年(明治30年)には、西本願寺から里見法爾(さとみ・ほうに)師が開教監督として、今村恵猛(いまむら・えみょう)師が開教使として正式に派遣されました。1899年(明治32年)には、本願寺派としてハワイ最初の本堂となるハワイ本願寺が完成しました。これが、後の本派本願寺ハワイ別院へと発展していきます。当初、移民たちは日々の生活に追われ、仏教の教えに耳を傾ける余裕を持てないことも少なくありませんでした。その後、低賃金や厳しい労働環境を背景に労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通して、農園主側からも本願寺への理解が得られるようになり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。本願寺派の公式資料によると、現在、ハワイには32の寺院があります。また、幼児教育から中学校段階までのホンワンジ・ミッション・スクールと、2003年に開校した仏教系高校パシフィック・ブディスト・アカデミーが運営されています。パシフィック・ブディスト・アカデミーは、西洋諸国で初の仏教系高等学校とされています。🔶太平洋戦争の試練と日系社会のアイデンティティ1941年、真珠湾攻撃を契機に日本とアメリカの戦争が始まると、日本人・日系人社会の指導者と見なされた開教使や僧侶の多くが拘束され、アメリカ本土の抑留所へ送られました。ハワイでは、アメリカ本土西海岸のように日系人住民全体が一律に強制収容されたわけではありません。しかし、僧侶、日本語学校の教師、新聞関係者、地域の指導者などが拘束され、残された人々も厳しい監視や差別の中で生活しました。戦後、お寺の活動は再開され、「サンデースクール」と呼ばれる日曜学校や、ボーイスカウト、野球、バスケットボールのクラブチーム、太鼓グループなどの活動を通じて、日系人コミュニティと地域社会を支える文化的な拠点となっていきました。ハワイのお寺では、夏の「盆ダンス(Bon Dance)」やバザーなどの行事が今も盛んに行われています。寺院によっては、バザーで照り焼きチキンなどの料理を販売し、その収益を寺院の維持や地域活動に役立てています。日本の寺院とはまた異なる、地域に開かれた組織的な運営が行われているのです。戦時中、僧侶や日系社会の指導者の一部が抑留され、残された人々も大きな不安や差別の中で暮らしました。それでも、お寺を中心とした集いと盆踊りなどの文化を守り続けた歴史は、異国の地で生きる人々が、自らのルーツとアイデンティティを保つための大切な心の支えとなりました。🔶マウイ島大火災とラハイナ本願寺への支援2023年8月8日、アメリカ・ハワイ州マウイ島で大規模な山火事が発生し、歴史ある港町ラハイナは壊滅的な被害を受けました。この火災によって、ラハイナ本願寺では、本堂、学校建物、事務所、社会活動用ホール、台所、開教使住宅などが焼失しました。開教使や現地の門信徒、地域の人々も避難を余儀なくされました。復興には長い時間を要しており、現在も息の長い支援が続けられています。同じお念仏の教えに結ばれた仲間として、日本からもハワイへ温かな支援の手を差し伸べ続けることが求められています。現在では、日本にルーツを持たない現地出身の僧侶も数多く誕生しています。また、本願寺派の開教活動は、ハワイだけでなく、アメリカ本土の西海岸を中心とする日系社会にも広がっていきました。言葉や国籍、文化が異なっても、お念仏のみ教えを中心に結ばれた人々のつながりは、グローバル社会における共生の姿を、私たちに示してくれています。🔶今週のまとめ【1】ハワイの仏教は、1868年に渡った「元年者」や、1885年から始まった官約移民など、サトウキビ農園で働いた日本人移民の歴史と深く結びついて発展しました。移民には広島、山口、熊本など西日本の出身者が多く、1900年以降は沖縄からも多くの人々が渡りました。【2】1889年、曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡って布教巡回を行いました。1897年には本願寺から正式な開教監督と開教使が派遣され、1899年にはハワイ本願寺の本堂が完成しました。これが後の本派本願寺ハワイ別院へと発展しました。【3】労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通じて本願寺への理解が広がり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。【4】真珠湾攻撃後には、開教使や日系社会の指導者の一部が拘束・抑留されました。戦後、寺院は活動を再開し、日曜学校、ボーイスカウト、スポーツ、太鼓、盆ダンスなどを通して、日系社会と地域社会を支える拠点となりました。【5】2023年8月のマウイ島山火事では、ラハイナ本願寺の本堂やホール、開教使住宅などが焼失しました。復興には長い時間を要しており、ハワイと日本の門信徒や関係者による継続的な支援が行われています。次回のテーマは「戦争と平和」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

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【心に涼風を】──蝉の声に映る命の無常と今を精一杯生きる教え

【心に涼風を】──蝉の声に映る命の無常と今を精一杯生きる教え

【心に涼風を】──蝉の声に映る命の無常と今を精一杯生きる教え

🔶二十四節気「大暑」と土用の丑の日の由来一年の中で最も暑さが厳しくなる二十四節気の「大暑(たいしょ)」を迎え、厳しい酷暑が続いています。この時期の風物詩といえば「土用の丑の日」の鰻(うなぎ)ですが、夏場に鰻を食べる風習は江戸時代、夏場に売上が落ちて困っていた鰻屋から相談を受けた蘭学者の平賀源内が、「本日土用丑の日」という貼り紙を店先に掲げさせたところ大繁盛したことが始まりとされています。こうした猛暑の中、仏嚴寺の前住職である祖父・高千穂将史(まさふみ)が昭和60年(1985年)頃に遺したコラム「心に涼風を」に触れながら、現代を生きる私たちの命のあり方について見つめ直します。🔶松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」の二つの味わいかつてお寺で配布していたコラムには、境内で激しく鳴く蝉(セミ)と、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句「やがて死ぬ 景色は見えず蝉の声」を通じた二つの深い味わいが記されていました。一つ目は「わずか1週間の儚い命であることも知らず、のんきに浮かれてただワシワシと鳴いていることよ」という自省の味わいです。将史元住職は「自分も時折、『お前さん、もう長い命ではないのだよ。何を呆けて暮らしているのか』と自分自身に問いかけている」と述べています。二つ目は「やがて死にゆく運命であることを知りながらも、蝉は今の今を力の限り命を歌い上げていることよ」という感銘の味わいです。儚い命だからこそ、投げやりになるのではなく「今日の1日を精一杯生きねばならない」という教えを、蝉の声が私たちに届けてくれています。🔶時代が変わっても変わらない「命の無常」昭和60年当時、境内に蝉取りに来る子どもたちの姿が減り、室内遊びや塾へと環境が変化していった様子がコラムに綴られていました。現代ではさらに環境が変わり、気温が35度を超える猛暑日には蝉すら鳴かなくなるような酷暑の時代を迎えています。しかし、2500年前のお釈迦さまの時代から、昭和、そして現代に至るまで、科学技術が発達し平均寿命が延びたとしても、決して変わらない事実があります。それは「人間は必ず命を終えていく(無常)」という命のあり様です。どれほど時代や環境が移り変わろうとも、私たちは限られた時間の中で生かされているという根本的な真理は変わりません。🔶お寺という「心のオアシス」と地域のハブかつてのお寺は、境内が子どもたちの格好の遊び場であり、地域の人々が自然と集うコミュニティの拠点(ハブ)でした。江戸時代には、お寺の軒先でお坊さんとお侍さんが酒を酌み交わして語り合うような、極めて身近で開かれた空間でした。「お寺は敷居が高い」と感じられがちな現代ですが、決してそんなことはありません。都市の喧騒や猛暑の中でふと立ち寄り、冷たいお茶を飲みながら心を静め、句やみ教えに触れて「心の涼風」を感じていただくような、地域のオアシスとして気軽にお参りしていただくことが本来のお寺の姿です。🔶今週のまとめ【1】二十四節気の「大暑」や「土用の丑の日」など夏の節目を迎える中、前住職のコラムを通じて「心に涼風」を届ける命の対話が展開されました。【2】松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず蝉の声」には、自らの無常を忘れて呆けて生きる自己への戒めと、有限の命を精一杯生き抜く姿という二つの味わいがあります。【3】昭和60年頃と現代では子どもたちの過ごし方や気候環境が変化しましたが、「人は必ず命を終えていく」という仏教の説く無常の理(ことわり)は変わりません。【4】昔のお寺は子どもたちの遊び場や地域の交流拠点であり、現代においても敷居が高い場所ではなく、誰でも気軽に心を調えられる空間です。【5】慌ただしい日々の中で一息つき、自分自身の命の限界と向き合いながら「今日の1日を精一杯生きる」ことの大切さを学ぶことが、心に確かな涼風をもたらします。次回テーマは「仏教とハワイ」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

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【お盆の意味】──盂蘭盆会の由来と世界に広がるお念仏のご縁

【お盆の意味】──盂蘭盆会の由来と世界に広がるお念仏のご縁

【お盆の意味】──盂蘭盆会の由来と世界に広がるお念仏のご縁

🔶盂蘭盆会の由来と目連尊者の物語お盆の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、その語源は古代インドのサンスクリット語である「ウランバーナー(ullambana)」に由来します。これには「逆さ吊りの苦しみ」という意味があります。その由来は『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』というお経に説かれています。お釈迦さまの弟子で、優れた神通力を持つことから「神通第一(じんづうだいいち)」と称された目連尊者(もくれんそんじゃ)が、あるとき「亡くなった母は今どこでどうしているだろうか」と自らの神通力で霊界を見渡しました。すると、母親は貪りの罪によって餓鬼道(がきどう)という苦しみの世界に落ちており、まさに逆さ吊りのような凄惨な苦しみを受けていたのです。悲しんだ目連尊者が「どうすれば母を救えますか」とお釈迦さまに乞うたところ、「夏の厳しい修行(安居)が終わる7月15日に、多くの修行僧たちに食べ物や飲み物をお供えして深く供養しなさい。その功徳によって母親は救われるであろう」と教えられました。目連尊者がその通りにお勤めをすると、母親は無事に餓鬼道の苦しみから解き放たれたといいます。これが、私たちが今日営んでいるお盆の始まりです。🔶日本のお盆の歴史と浄土真宗の受け止め方日本におけるお盆の歴史は非常に古く、『日本書紀』には推古天皇14年(606年)にお盆の行事を行ったという記述が残されています。今からおよそ1400年以上も昔から、日本では亡き人を偲び、命のつながりを確かめる大切な行事として全国へ広がっていきました。なお、一般的にはお盆の飾り付けとして「きゅうりの馬」や「ナスの牛」(精霊馬・精霊牛)を用意する風習がありますが、浄土真宗においてはこれらを用いません。これらは日本古来の民間信仰や民俗風習が仏教行事と結びついて生まれたものです。浄土真宗では、亡くなられた方は阿弥陀さまの導きによって即座にお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるため、迷って現世に戻ってくることもなければ、移動のための乗り物を必要とすることもない、という教えの真髄に基づいているためです。🔶「7月盆」と「8月盆」──明治の改暦に隠された財政事情現在、日本には7月にお盆を行う地域(新暦盆)と、8月に行う地域(月遅れ盆・旧盆)が混在していますが、これには明治時代の「改暦」という近代化政策が大きく関係しています。もともとお盆は旧暦の7月15日に行われていましたが、明治5年、明治政府は西洋諸国と暦を合わせるために太陽暦(新暦)の導入を発表しました。これにより、明治5年12月2日の翌日が一気に「明治6年1月1日」となったのです。月の満ち欠けを基準とする旧暦(太陰太陽暦)は1年が約354日であるため、数年に一度「閏月(うるうづき)」が入って1年が13ヶ月になる年がありました。実は、当時の明治政府は極めて深刻な財政難に陥っていました。旧暦のままだと翌年に13ヶ月目が訪れ、官吏や軍人への給料を1ヶ月分多く支払わなければならなくなります。それを避けるために急遽新暦を導入し、1ヶ月分の支給を免れるという財政対策の側面がこの改暦には隠されていたのです。新暦への突然の移行により、本来の7月15日にお盆をしようとすると、農村部では最も忙しい農繁期と重なってしまい、お盆どころではなくなってしまいました。また、昔の農家にとってお盆は、普段なかなか口にできない大切な白米をいただくお祭りのような意味合いもありました。そこで、生活や農業のサイクルに配慮し、1ヶ月季節を遅らせて平穏にお勤めできるようにしたのが、現在の「8月盆(月遅れ盆)」の始まりです。🔶アメリカ日系社会へ渡った盆踊りとアイデンティティお盆の象徴である「盆踊り」は、本来は一遍(いっぺん)上人などが広めた「踊り念仏(おどりねんぶつ)」という別の宗派の文化に由来するため、日本の浄土真宗においては歴史的にあまり馴染みのないものでした。しかし興味深いことに、太平洋を渡ったアメリカやハワイの日系社会において、この盆踊り(BonDance)を文化として定着させ、広く発展させたのは浄土真宗の開拓伝道使たちでした。異国の地へ移住した日系移民の方々にとって、現地の開拓寺院(お寺)はみ教えを聞く場であると同時に、同じルーツを持つ仲間たちが集うかけがえのないコミュニティの拠点でした。ハワイやアメリカ西海岸のお寺では、お盆の時期になると盛大なバザーが開かれ、お寺の裏に据えられた巨大な石窯やグリルで「テリヤキチキン」を豪快に焼いて売り出し、みんなで盆踊りを踊って遠い日本の故郷に想いを馳せました。さらに、第二次世界大戦中に日系人の方々が強制収容所へと隔離された際にも、彼らは収容所の中で欠かさず盆踊りを催していました。過酷な逆境にあっても、自分たちのアイデンティティと文化を守り抜き、お念仏のみ教えを心の拠り所として生き抜くために、お盆と盆踊りは彼らにとって絶対に必要な魂の灯火だったのです。国籍や言語が変わっても、お念仏を喜び、ご縁を大切にする心は世界中で力強く息づいています。🔶命のご縁を喜び、本堂へお参りするお盆時代や場所が変わっても、お盆の本質は変わりません。それは、先にお浄土へ還られた大切な方々の命を尊い「ご縁」として、いま生きているこの私が、阿弥陀さまの救いのみ教え(お念仏)に出会わせていただくということです。お盆の時期にお墓参りへ行かれる際は、お墓の前だけでお参りを済ませるのではないでなく、ぜひお寺の本堂へも足を運び、阿弥陀さまの前でお参りください。故人が遺してくれた尊い結びつきに感謝しながら、本堂の清らかな空間で共にお念仏を称え、いつでも私を見捨てることなく包み込んでくださる阿弥陀さまの大いなる慈悲のぬくもりに、改めて出遇い直す素晴らしいお盆をお過ごしいただきたいと思います。🔶今週のまとめ【1】お盆の正式名称である「盂蘭盆会」は、お釈迦さまの弟子である目連尊者が、餓鬼道で「逆さ吊りの苦しみ(ウランバーナー)」を受けていた実母を救ったという『盂蘭盆経』の物語に由来します。【2】日本のお盆は推古天皇の時代(606年)から続く古い伝統ですが、浄土真宗では、亡き人はすでに浄土で仏となられている(往生即成仏)と受け止めるため、精霊馬(きゅうりの馬やナスの牛)などの飾りは用いません。【3】「7月盆」と「8月盆」の混在は、明治5年の太陽暦(新暦)導入が原因であり、当時の明治政府が閏月による給料の重複支給を防ぐという財政難対策の側面も含まれていました。【4】一遍上人の「踊り念仏」に由来する盆踊りは、アメリカやハワイの日系社会では浄土真宗の伝道によって広く普及し、戦時の強制収容所でもアイデンティティを守る心の支えとして踊り継がれました。【5】お盆は亡き人を縁として今を生きる私たちが心静かにお念仏のみ教えに出会う尊いご縁であり、お墓参りと共にお寺の本堂へもお参りし、阿弥陀さまの救いを喜ぶことが本来の過ごし方です。次回テーマは「心に涼風を」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

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【法事の意味】──悲しみを癒し、私がみ教えに出会うご縁

【法事の意味】──悲しみを癒し、私がみ教えに出会うご縁

【法事の意味】──悲しみを癒し、私がみ教えに出会うご縁

🔶年忌の数え方と儒教・十王信仰に由来する歴史私たちが日常的にお勤めする法事は、正式には「年忌法要(ねんきほうよう)」と呼びます。お葬式やお通夜、四十九日の「満中陰(まんちゅういん)」に始まり、その後は一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と続いていきます。ここで「なぜ一周忌の翌年が三回忌なのか」と疑問に思う方も多いでしょう。これには諸説ありますが、一説には中国の儒教の習慣が元になっているといわれています。儒教の喪服の期間において、亡くなって13ヶ月目を「少祥(しょうしょう)」、25ヶ月目を「大祥(だいしょう)」と呼び、これが日本の一周忌(満1年)と三回忌(数え年で3年=丸2年後)の起源となりました。また、なぜ「3」や「7」のつく年に法事を行うのかという点についても、江戸時代に無著道忠(むちゃくどうちゅう)が編纂した辞書『禅林象器箋(ぜんりんぞうきせん)』などの古書に歴史が記されています。『地蔵菩薩発心因縁十王経(じぞうじゅうおうきょう)』に代表される十王信仰や、中国の故事が日本の伝統文化と融合し、長い歴史を経て現在の年忌のサイクルが定着していきました。🔶悲しみを癒すプロセスと故人の記憶の継承数年ごとに巡ってくる法事のサイクルには、遺された私たちが「悲しみを癒していく大切なプロセス(過程)」としての意味が込められています。身近な人を亡くした直後は深い悲しみに暮れますが、一周忌、三回忌とお勤めを重ねる中で、少しずつ心の痛みが和らいでいきます。そして七回忌や十三回忌ともなると、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんの顔を直接知らない小さなお孫さんが同席することもあります。そうした席で「この家はおじいちゃんが建ててくれたんだよ」「こういう優しい人だったんだよ」と、みんなで思い出話を語り合うことこそが何よりの供養となります。時の経過とともに薄れがちな故人の記憶を家族や友人で共有し、次の世代へと受け継いでいくための、法事は実によくできた尊いサイクルなのです。🔶浄土真宗における法要の四つの意義仏教において法事中にお経をあげることには、大きく分けて四つの大切な意味(意義)があるといわれています。一つ目は「仏徳讃嘆(ぶっとくさんたん)」。仏さまの計り知れないお徳を、声を揃えて褒め称えることです。二つ目は「仏徳領受(ぶっとくりょうじゅ)」。仏さまの尊いみ教えを、自らの心にしっかりと受け入れることです。三つ目は「仏恩報謝(ぶつおんほうしゃ)」。仏さまから注がれている大いなる慈悲に対して、心からの感謝を伝えることです。四つ目は「仏徳奉行(ぶっとくぶぎょう)」。いただいたみ教えを日々の生活の拠り所とし、しっかりと歩んでいくことを誓うことです。この四つの歩みを参拝者全員で共有することが、法事という儀式の本質なのです。🔶追善供養ではなく「私のための法事」ここで最も大切なのは、浄土真宗における法事は「遺された者が、亡き人を迷わないようにあの世へ吊り上げるために行うものではない」という点です。一般的な仏教では、遺族が善い行いをしてその功徳を故人に届ける「追善供養(ついぜんくよ長)」という考え方がありますが、浄土真宗は異なります。亡くなられた方は、阿弥陀さまの導きによってすでに迷うことなくお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるからです。したがって、法事は「これだけ供養してやったからもう安心だろう」と善根を積む場ではなく、他でもない「今を生きるこの私」が、故人を縁としてお念仏のみ教えに出会い、自らの命のあり方を見つめ直すために開かれている場なのです。🔶仏前へのお供え物の心得と「向き」の真実法事やお墓参りの際、仏前や墓石にお酒やタバコをお供えされる方をよく見かけます。「故人が生前に好きだったから」という優しいお気持ちからでしょう。しかし、仏教(特にお浄土の清浄さを重んじる浄土真宗)においては、実はこれらはあまりふさわしくないお供え物とされています。仏前へのお供えの基本は、お香、お灯明(ローソク)、お花、そして仏飯(お仏飯)や果物などの「五聖(五供)」です。故人が欲しがるものをこちらから一方的に送り届けるという「向き」ではなく、仏さまとして完成された清らかな世界に対し、私たちが敬意を持って身構えを調え、み教えに耳を傾けさせていただくという「向き」が大切です。このお供え物の本来の意味を一つ胸に留めておくだけで、法事の合掌の深さは大きく変わるはずです。🔶今週のまとめ【1】法事(年忌法要)の数え方は、満1年目に行う「一周忌」を除き、すべて数え年(三回忌は丸2年後、七回忌は丸6年後)で計算されます。【2】一周忌(少祥)や三回忌(大祥)といった年忌の数字は、中国の儒教の風習や『禅林象器箋』に記される十王信仰などが、長い日本仏教の歴史の中で培われて定着したものです。【3】定期的に巡ってくる年忌法要には、遺族が亡き人を偲びながら悲しみを癒す心理的なプロセスとしての役割があり、故人の思い出を次世代へ語り継ぐ大切な機会となっています。【4】浄土真宗の法事には「仏徳讃嘆」「仏徳領受」「仏恩報謝」「仏徳奉行」の四つの意義があり、故人を追善供養するためではなく、「今生きる私がみ教えに出会うため」に修されます。【5】仏前へのお供えは、故人の嗜好品(お酒やタバコなど)を届けるのではなく、仏さまのお飾りとしてふさわしい五供を調え、私たちが仏さまと向き合わせていただく場であることを心得ることが大切です。次回テーマは「お盆(おぼん)のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

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【仏教と七夕】──短冊に託す「人間の願い」と私を案じる「仏の願い」

【仏教と七夕】──短冊に託す「人間の願い」と私を案じる「仏の願い」

【仏教と七夕】──短冊に託す「人間の願い」と私を案じる「仏の願い」

🔶棚機津女の神事と中国から伝わった乞巧奠7月7日の「七夕」は、古くは「七夕(しちせき)の節句」と呼ばれ、江戸時代には五節句の一つとして庶民の間にも広く定着した日本の伝統行事です。そのルーツは、日本古来の神事と中国の伝説が融合したものといわれています。元来、日本では「棚機(たなばた)」という織機を用い、選ばれた清らかな女性が水辺の「機屋(はたや)」にこもって神様のための着物を織り、秋の豊作を祈って人々の穢れを祓う「棚機津女(たなばたつめ)」の神事が行われていました。やがて仏教が伝来すると、この行事はお盆(ご先祖さま)を迎えるための準備として、7月7日の夜に行われるようになります。そこに、中国から伝わった織物や芸事の上達を願う「乞巧奠(きこうでん)」の風習と、織姫・彦星の星祭り伝説が結びつき、現在の七夕の形が形作られていきました。🔶夜空に広がる織姫と彦星の星祭り伝説プラネタリウムなどでも親しまれている星祭り伝説では、天の川のほとりで神々の着物を織っていた真面目な娘・織女(しょくじょ/織姫)と、牛を飼う青年・牽牛(けんぎゅう/彦星)が登場します。天空で最も偉い神様である天帝の引き合わせで結婚した二人ですが、仲が良すぎるあまり、次第に仕事を忘れて遊び呆けるようになってしまいました。織物が滞って神々の着物はボロボロになり、牛たちも病気になってしまったことに怒った天帝は、二人を天の川の両岸に引き離してしまいます。しかし、二人があまりにも悲しみに暮れるため、天帝は「真面目に働くならば、年に一度、7月7日の夜だけ会うことを許す」と約束しました。現在、私たちが夜空を見上げる時、こと座の一等星ベガ(織姫)と、わし座の一等星アルタイル(彦星)の間に、美しく横たわる天の川を観察することができます。🔶五色の短冊と笹竹に込められた魔除けの意味七夕といえば、笹の葉に色とりどりの短冊を飾る光景が思い浮かびます。古来、笹竹には神聖な力が宿り、神様が降り立つ依り代(よりしろ)であると考えられていました。短冊に用いられる「五色(ごしき)」の青(緑)・黄・赤・白・黒(紫)は、中国の「陰陽五行説」に由来しており、魔除けの意味が込められています。同時に、これらは仏教の万国共通の旗である「仏旗」の五色にも通じる清らかな色合いです。江戸時代に庶民の間へ広がると、寺子屋で学ぶ子供たちが「習字や手習いが上手になりますように」と短冊に願い事を書くようになり、現代へと続く七夕の風習が完成していきました。🔶「私の願い」と「阿弥陀さまの願い」の逆方向仏教的な視点で七夕を見つめ直すとき、そこには「願い」という深い共通点が見えてきます。私たちは短冊に「字が上手になりますように」「お金がたくさん入りますように」と、自らの欲求や願いを書き込みます。織姫と彦星の願いもまた、「大切な人に会いたい」という自らの切実な想いです。これらはすべて、自分を起点として外側へと向かう「人間の願い」といえます。しかし、仏教、特に浄土真宗で説かれる「願い」は、これとは全く向きが逆になります。それは、阿弥陀如来という仏さまが「この私」を目当てとして、あらゆる苦しみから必ず救い取るために建ててくださった「仏さまの願い(本願)」です。私たちが自らの小さな願いに一喜一憂している時、その足元では、仏さまの大きな願いに包まれ、常に願われながら生かされている。七夕という行事は、短冊に目を向けながらも、同時に「私を案じてくださる大きな存在」に気づかされる尊いご縁でもあるのです。🔶伝統行事を通して振り返る子供の成長と地域の思い出かつて熊本市中央区新町にあった「熊本市子ども文化会館」などの児童館でも、七夕の行事は子供たちの健やかな遊びや学びの場として大切にされてきました。学校給食で出された行事食の「七夕ゼリー」を、懐かしく思い出される方も多いのではないでしょうか。子供たちが一生懸命に短冊に書いた願い事は、親が我が子の心の成長や変化をそっと知るための、温かい道標(みちしるべ)にもなります。忙しい現代社会だからこそ、季節の伝統行事を通じて日々の生活を振り返り、自分自身の姿を省みるとともに、人と人との繋がりや、仏さまとの尊いご縁を改めて味わいたいものです。🔶今週のまとめ【1】7月7日の七夕は、日本古来の「棚機津女」の神事とお盆を迎える風習、そして中国から伝わった「乞巧奠」や星祭り伝説が融合して生まれた伝統行事です。【2】織姫(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)の伝説は、年に一度の再会を励みに真面目に勤めることの大切さを現代に伝えています。【3】神聖な力が宿るとされた笹竹に飾る「五色の短冊」は、陰陽五行説に基づく魔除けの道具であり、江戸時代の寺子屋教育などを通じて広く普及しました。【4】短冊に書く「人間の願い」が自分を起点にしているのに対し、浄土真宗の説く「阿弥陀さまの願い(本願)」は、仏さまから私へと注がれる無条件の慈悲の光です。【5】伝統行事や地域での思い出を通じて自らの姿を省み、自分が多くの命や仏さまに「願われている存在」であることに気づくことが大切です。次回テーマは「法事(ほうじ)の意味」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

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【浄土真宗と聖徳太子(後編)】──親鸞聖人が仰いだ観音の化身

【浄土真宗と聖徳太子(後編)】──親鸞聖人が仰いだ観音の化身

【浄土真宗と聖徳太子(後編)】──親鸞聖人が仰いだ観音の化身

🔶親鸞聖人が「和国の教主」と讃えた聖徳太子先週に引き続き、「浄土真宗と聖徳太子」というテーマでさらに深くお話を伺います。日本仏教の恩人である聖徳太子は、浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)聖人から「和国の教主(わこくのきょうしゅ)」、すなわち「日本におけるお釈迦さま」として深く敬われました。そのお徳を偲び、浄土真宗の寺院の本堂内陣(仏さまが安置されている空間の向かって右側)には、今も聖徳太子の絵像や木像が大切に掲げられています。親鸞聖人の生涯と聖徳太子の間には、聖人自身の歩みを大きく決定づける極めて深い結びつきがありました。🔶『皇太子聖徳奉讃』にみる慈悲の和歌親鸞聖人は、聖徳太子を称える多くの和歌(和讃)を残されており、それらは『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』として現代に伝わっています。その中の一首をご紹介します。「救世観音大菩薩 聖徳皇と顕現し 父のごとくに捨てずして 母のごとくに添うたもう」この歌は、「救世観音(くぜかんのん=観世音菩薩)が聖徳太子としてこの世に姿を現し、まるで実の父母が我が子を慈しむように、私たちを見捨てることなくいつも寄り添ってくださっている」という意味です。仏教において観世音菩薩は阿弥陀さまの慈悲の働きを助け、人々の苦しみを救う仏さまです。日本では古くから「聖徳太子は観音さまの化身である」という太子信仰が盛んでしたが、親鸞聖人もまた、太子の中に無限の慈悲を見出されていました。🔶六角堂での夢告とお念仏への導き親鸞聖人が阿弥陀さまの「お念仏のみ教え」に出会う大きな転機となったのも、実は聖徳太子とのご縁でした。聖人は9歳から20年もの間、比叡山で過酷な修行を重ねられましたが、自らの力で煩悩を断ち切ることができず深く悩まれました。そこで29歳の時、意を決して山を降り、太子にゆかりの深い京都の六角堂へ百日間の参籠(さんろう)に入られます。その95日目の暁、聖徳太子の化身である観音菩薩が夢の中に現れ、「示現(じげん)の文」と呼ばれるお告げを授けられました。その内容は、「自力で煩悩を断ち切ろうと苦しむのではなく、ありのままの自分を救い取ってくださる阿弥陀さまにお任せ(他力念仏)しなさい」という、進むべき道を示すものでした。この夢告をきっかけに、聖人は生涯の師である法然(ほうねん)上人のもとを訪ね、浄土真宗の基盤となるお念仏の道へと歩み出されたのです。🔶絵像や彫像にみる太子の真実の姿お寺に安置されている聖徳太子の姿は、私たちがよく知る旧一万円札の烏帽子姿とは異なります。仏教の世界で広く親しまれているのは、髪を左右でお団子のように結った「角髪(みずら)」姿で、「柄香炉(えごうろ)」という仏具を手にした16歳の頃のお姿(孝養像)です。これは、病の床に伏せった父・用明天皇の平癒を心から祈願し、仏法僧の三宝を大切にされた太子の至純な心を写したものです。また、わずか2歳にして東を向いて合掌し、「南無仏(なむぶつ=仏さまに帰依します)」と唱えられた瞬間の愛らしいお姿(南無仏太子像)など、関西をはじめ全国の古いお寺には多様な太子像が残されています。私たちの仏嚴寺にも、そうした歴史の重みを伝える尊い聖徳太子像が大切に受け継がれています。🔶日本人のDNAに息づく仏教の始まり仏教が日本に伝来した当初、それを国家として受け入れるべきか否かを巡り、物部(もののべ)氏(廃仏派)と蘇我(そが)氏(崇仏派)の間で激しい論争と対立がありました。聖徳太子はその対立を乗り越え、仏教の精神を政治と国づくりの根本に据えることで、日本独自の文化の礎を築かれました。もしこれが権力による力ずくの強制であったなら、1500年もの長い間、仏教が民衆に受け入れられ、受け継がれてくることはなかったでしょう。人々が苦しみから救われる道を第一に考えた太子の精神があったからこそ、仏教は日本人の生活や精神の奥深いところ(DNA)にまで溶け込んでいるのです。飛鳥・奈良・平安と時代を経て発展していく日本仏教のすべての始まりの場所には、いつも聖徳太子の温かいまなざしがありました。🔶今週のまとめ【1】親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主」「日本仏教の父」と仰ぎ、真宗寺院の本堂内陣には今も大切に太子の絵像が掲げられています。【2】聖人による『皇太子聖徳奉讃』の和歌では、聖徳太子を観世音菩薩の化身とし、親のように私たちに付き添う慈悲のお姿として讃えています。【3】比叡山での修行に悩んだ親鸞聖人は、六角堂の参籠中に聖徳太子(観音の化身)からの夢告を受け、法然上人のお念仏のみ教えへと導かれました。【4】太子像には、父の病気平癒を祈る16歳の「孝養像」や、合掌して南無仏と唱える2歳の「南無仏太子像」など、信仰に満ちた姿が伝わっています。【5】仏教伝来の論争を経て、太子がみ教えを政治と国づくりの根本に据えたからこそ、仏教は日本人の生活や心に深く根付くこととなりました。次回テーマは「仏教と七夕(たなばた)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

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【聖徳太子】──日本仏教の父と「和国の教主」の精神

【聖徳太子】──日本仏教の父と「和国の教主」の精神

【聖徳太子】──日本仏教の父と「和国の教主」の精神

🔶厩戸皇子から聖徳太子へ、激動の時代と仏教伝来近年、学校の教科書などでは当時の名である「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」という表記が増えていますが、没後に「聖徳太子」の諡号(しごう)が贈られたこの方は、日本の仏教史上、極めて重要な人物です。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、太子を「和国の教主(わこくのきょうしゅ)」、すなわち「日本の釈尊(お釈迦さま)」であると深く崇め奉りました。そのため、真宗の寺院の本堂内陣(向かって右側)には必ず聖徳太子の絵像や木像が安置されており、今も大変大切にされています。仏教が日本に伝来した時期には、公伝とされる538年や『日本書紀』に記された552年など諸説ありますが、その少し後の574年、用明天皇の第二皇子として太子は誕生されました。当時は、百済などから伝わった未知の教えである仏教を受け入れるべきか否かという「崇仏論争」が激化していた、まさに激動の時代でした。🔶十七条憲法に込められた「篤く三宝を敬え」の精神わずか20歳で推古天皇の摂政となった聖徳太子は、政治の根本に仏教の精神を据え、国家の基盤づくりに尽力されました。西暦604年に制定された「十七条憲法」の第二条には、「篤く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と記されています。ここでいう「僧」とは、単に個人の僧侶を指すのではなく、サンスクリット語の「サンガ(ともに仏教を学ぶ仲間の集い・教団)」を意味します。太子は、蘇我馬子(そがのうまこ)らと共に仏教を国教的なよりどころとすることで、人々が争いをやめ、互いを尊重し合える平和な国を目指されたのです。🔶冠位十二階と法隆寺・四天王寺の建立にみる平等思想太子の功績である「冠位十二階」の制定も、非常に仏教的な平等精神に基づいています。それまでの家柄や身分による世襲制を排し、個人の才能や功績に応じて役職(冠位)を与えるというこの制度は、全ての人が平等に仏性(ぶっしょう)を持つという仏教の教えに通じるものがあります。また、父である用明天皇の遺志を継ぎ、推古天皇と共に建立した「法隆寺」をはじめ、日本最古の官寺である「四天王寺」など、多くの寺院を建立されました。この大規模な建築事業の功績から、聖徳太子は現代でも大工や建築職人の世界において「職人の守護神」として尊ばれています。江戸時代には、熊本の細川藩の武家屋敷が建てられた際にも、工事の安全を祈願して聖徳太子像が奉納されるなど、地域を超えた篤い信仰を集めました。🔶烏帽子姿ではない、お寺に伝わる太子の真実の姿かつてのお札に描かれていた烏帽子(えぼし)に笏(しゃく)を持った聖徳太子の肖像画は、後世に描かれたイメージ図です。仏教の世界や古くからのお寺で一般的に安置されている太子の姿は全く異なります。幼少期の姿を描いた、頭髪を左右で結ったお団子のような「角髪(みずら)」姿の像や、わずか2歳の時に東を向いて「南無仏(なむぶつ)」と唱えられたお姿を模した、上半身裸の「南無仏太子像」、16歳の時に父の病気平癒を祈った「孝養(くよう)像」など、多様な重要文化財の姿が今に伝わっています。私たちの仏嚴寺にも、そうした古い歴史を持つ由緒ある聖徳太子像が大切に受け継がれています。🔶今週のまとめ【1】聖徳太子(厩戸皇子)は、親鸞聖人から「和国の教主」と称えられた日本仏教の恩人であり、真宗寺院の本堂にも必ず安置されています。【2】十七条憲法で説かれる「三宝(仏・法・僧)」の「僧」とは、単なる僧侶ではなく、共にみ教えを学ぶ仲間(サンガ)を指しています。【3】冠位十二階の制定や法隆寺・四天王寺の建立には、身分に捉われず人々が共に手を取り合うという仏教の平等精神が活かされています。【4】聖徳太子は建築・大工の世界でも守護神として尊ばれており、熊本の細川藩をはじめ全国各地に太子信仰の形が残されています。【5】お札の烏帽子姿は後世の肖像であり、お寺では幼少期の「南無仏太子像」など、み教えを象徴するお姿で親しまれています。次回テーマは「浄土真宗と聖徳太子(後編)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

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【仏教と蓮】──泥中に咲く「妙好人」 み教えの光

【仏教と蓮】──泥中に咲く「妙好人」 み教えの光

【仏教と蓮】──泥中に咲く「妙好人」 み教えの光

🔶泥中から清らかに咲き誇る悟りのシンボル暑い季節を迎えると、水面に美しく大輪の花を咲かせる「蓮(はす)」は、仏教において最も象徴的な植物です。お釈迦さまが誕生されたインドの国花でもあり、仏教では「悟り」や「清らかさ」の象徴とされてきました。蓮は濁った泥の中から茎を伸ばし、泥に染まることなく清浄な花を咲かせます。この姿が、迷いや苦しみに満ちた現実世界(泥)にありながら、それに決して染まらずに清らかな智慧と慈悲(花)を開かせる仏さまの悟りの姿に重ねられているのです。🔶『阿弥陀経』が説く「みんな違ってみんないい」の世界浄土真宗で大切にされる『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』には、お浄土の池に咲く蓮の様子が「池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光微妙香潔(ちちゅうれんげ だいにょしゃりん しょうしきしょうこう おうしきおうこう しゃくしきしゃくこう びゃくしきびゃくこうみみょうこうけつ)」と描かれています。青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、それぞれがそのままで輝き、気高い香りを放っています。これは「十人十色」の言葉通り、私たちは誰一人として同じではなく、それぞれが「ありのままの姿」で阿弥陀さまの救いの目当てとなり、お浄土で輝かせていただけるという平等の教えを表しています。🔶衆生を救うために一歩を踏み出す前傾姿勢阿弥陀如来の立像(立ち姿)を拝すると、蓮の花の台座(蓮台)の上で、少し前方に傾いた「前傾姿勢」をとられていることに気づきます。これは、苦しみの中にある私たちを「必ず救い取る、一刻も猶予していられない」と、座って待つことすらできずに、今すぐこちらへ一歩を踏み出そうとされている慈悲の躍動的なお姿を表しています。どんな時でも私の方を向き、至り届いてくださる阿弥陀さまの強いお心が、その立ち姿に具現化されているのです。🔶金子みすゞの詩「蓮と鶏」に響く阿弥陀さまの働き浄土真宗の教えに出会い、お念仏を喜びながら人生を歩んだ人々を、仏教では白い蓮華に例えて「妙好人(みょうこうにん)」と称します。26歳という短い生涯を駆け抜けた詩人・金子みすゞさんもまた、真宗のご門徒の家庭に育ち、その豊かな感性で教えを表現した妙好人の一人といえます。彼女の詩「蓮と鶏(にわとり)」にこうあります。泥の中から蓮が咲く。それをするのは蓮じゃない。卵の中から鳥が出る。それをするのは鳥じゃない。それに私は気がついた。それも私のせいじゃない。蓮が咲くことも、雛が生まれることも、自分の力ではなく自然(じねん)の大いなる働きによるものです。そして「私が今、お念仏を称える身にさせられている」のも自分の力ではなく、前傾姿勢で私を包み込んでくださる阿弥陀さまの「お働き(本願力)」によるご縁だったのだという、深い感謝と喜びがこの詩の背景には息づいています。🔶「さびしいとき」の詩にみる摂取不捨の慈悲もう一つ、彼女の代表的な詩に「さびしいとき」があります。私がさびしいときに、よその人は知らないの。私がさびしいときに、お友だちは笑うの。私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。私がさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。周囲の人がどれだけ寄り添ってくれても、孤独や悲しみを完全に分かち合うことは困難です。しかし、仏さまだけは、私の寂しさをそのままご自身の寂しさとして受け止め、絶対に孤独にはさせない。「摂取不捨(せっしゅふしゃ=おさめとって見捨てない)」という阿弥陀さまの慈悲のぬくもりを、みすゞさんは「ほとけさまはさびしいの」というあまりにも純粋な言葉で表現しました。頭での理解を超え、自らの言葉として阿弥陀さまの真実に出会っていった金子みすゞさんの詩は、今を生きる私たちの心にも、温かい一輪の蓮華を咲かせてくれます。🔶今週のまとめ仏教において蓮の花は、濁った泥の中から清らかな花を咲かせる「悟り」と「清浄」の象徴です。『阿弥陀経』の「青色青光…」の一節は、一人ひとりが個性を保ったありのままの姿で救われていく平等の世界を示しています。阿弥陀如来の立像が前傾姿勢なのは、苦しむ私たちを救うため、今すぐに向かおうとされている慈悲の表れです。真宗門徒であった金子みすゞさんは、お念仏の喜びを詩に託した「妙好人」ともいえる尊い存在です。「蓮と鶏」や「さびしいとき」といった詩の背景には、阿弥陀さまの「お働き」や「摂取不捨」の慈悲が深く息づいています。次回テーマは「聖徳太子(しょうとくたいし)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

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【雨と仏教】──一水四見の智慧と心の安居

【雨と仏教】──一水四見の智慧と心の安居

【雨と仏教】──一水四見の智慧と心の安居

🔶唯識が説く一水四見の教え仏教の「唯識(ゆいしき)」という思想の中に、「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。これは「一つの水であっても、見る者の立場や境遇によって四つの異なる見え方をする」という意味です。例えば、天上の世界に住む「天人(てんにん)」には美しく透き通った瑠璃(宝石)のように見え、私たち「人間」にはそのままの水に見えます。また、「魚」にとっては大切な住処(すみか)であり、飢えと渇きに苦しむ「餓鬼(がき)」にとっては、燃え盛る炎や恐ろしい膿(うみ)の川に見えるとされています。この教えは、私たちが生きる現代社会にも深く通じています。同じ「雨」であっても、仕事や立場、環境が変われば、その捉え方や意味合いは大きく異なります。私たちは誰もが自分自身の価値観や境遇というフィルターを通して世界を見ており、「私の見えている世界がすべてではなく、他者には全く違う世界が見えているかもしれない」と気づくことが、他者を尊重し共生していくための第一歩となります。🔶雨季の修行から生まれた「安居」の伝統仏教の母国であるインドには、激しい雨が降り続く長い雨季(うき)があります。お釈迦さまの時代、古代の仏教教団では、この雨季の期間は外での移動や修行を行いませんでした。雨季は多くの小さな生き物たちが地表に這い出してくる時期であり、外を歩き回ることで、それらの尊い命を誤って踏み潰してしまう恐れがあったからです。そこで、僧侶たちは一カ所に集まり、外出を控えて熱心に勉強会や修行を行いました。このサンスクリット語で「ヴァルシャ」と呼ばれる雨季の引きこもり修行を、漢字では「安らかに居る」と書いて「安居(あんご)」と言います。現在でも、浄土真宗本願寺派をはじめ日本の多くの仏教教団において、この伝統を受け継いだ安居が開催されており、仏教の歴史の中で学問や教理が深く発展していくための極めて重要な契機となりました。🔶スマホ社会と読書(晴耕雨読)の大切さ雨のために外へ出られない時期は、古くから「晴耕雨読(せいこううどく)」と言われるように、静かに本を開き、学問や読書に励むのに最適な時間です。現代はスマートフォンや電子書籍が非常に便利になり、いつでも手軽に情報を得られるようになりましたが、ともすれば自ら腰を据えて紙の本を読む時間が疎かになりがちです。画面をスクロールしてピンポイントの答えだけを拾い上げるネット検索とは異なり、紙の本をめくる読書には、予期せぬ言葉や思想との豊かな出会いがあります。例えば、紙の辞書を引くとき、目的の単語の周囲にある別の言葉がふと目に留まり、それが新たな知識として蓄積されていくような面白さがあります。雨の季節こそ、デジタルから少し距離を置き、自らの手でページをめくる時間を大切にしたいものです。🔶AI時代の情報収集と自ら考える力近年はAI(人工知能)の進化によって、私たちが検索すらする必要のない時代が到来しています。問いかければ一瞬でデータをまとめ、完璧な文章や原稿を作成してくれる非常に便利なツールです。実際に、日々の正確なデータ整理などにAIを活用することは有意義ですが、すべてを依存してしまうことには危うさも潜んでいます。人間は、どうしても楽な方へと流されてしまいがちな存在です。だからこそ、効率的に得られる答えだけに満足せず、立ち止まって「自分の頭でじっくりと考える」プロセスを失ってはなりません。雨で外に出られない静かな時間は、効率性を求める日常から離れ、自らの内面を見つめ直し、知識を深くインプットするための貴重な「安居」の時間となるのです。🔶多様な視点から仏教を学ぶ読書の歓び読書を通じて見識を広げることは、自分の狭い殻を打ち破るきっかけをくれます。例えば、日本を代表する哲学者・西田幾多郎(にしだ きたろう)の代表作である『善の研究(ぜんのけんきゅう)』や、仏教学者であり哲学者でもある鈴木大拙(すずきだいせつ)の著作は、西洋哲学と東洋の仏教思想を対比させながら、深い知恵を私たちに授けてくれます。また、民俗学の創始者である柳田國男(やなぎた くにお)の視点から仏教を紐解くことも、日本人の信仰や生活の根底にある豊かな繋がりを教えてくれます。インターネットの世界は、個人の好みに合わせた情報ばかりが流れてくるため、油断すると自分の思想が凝り固まってしまいます。本という開かれたメディアを通じて、自分とは異なる立場や全く新しい視点に触れること。それこそが、一水四見の教えにあるような「多面的なまなざし」を養い、心を柔軟に保つための素晴らしい営みなのです。🔶今週のまとめ同じ水でも立場によって見え方が変わる「一水四見」の教えは、他者との価値観の違いを理解する智慧を伝えています。インドの雨季に生き物を踏まないよう一カ所にこもった「安居」は、仏教の学問が発展する重要な契機となりました。スマホやAIの利便性に頼りすぎず、雨の時期こそじっくりと読書をして自ら考えるインプットの時間が大切です。西田幾多郎の『善の研究』や鈴木大拙、柳田國男の著作のように、多様な角度から仏教や人間の営みを見つめ直すことが見識を広げます。心の凝り固まりをほぐすために、インターネットの枠を超えて多様な視点や言葉に触れることが現代を生きる支えとなります。次回テーマは「仏教と蓮(はす)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

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【お寺の掲示板】──門前から響く「現代のメディア」

【お寺の掲示板】──門前から響く「現代のメディア」

【お寺の掲示板】──門前から響く「現代のメディア」

🔶お寺の掲示板の由来と伝道の役割お寺の門前に必ずといっていいほど設置されている掲示板は、単なる行事案内(広報)以上の大切な役割を担っています。これらは「伝道掲示板(でんどうけいじばん)」と呼ばれ、明治時代、浄土宗がキリスト教の熱心な伝道活動に影響を受け、仏教の教えを広く一般に伝えるために始めたのがきっかけといわれています。門信徒のみならず、お寺の前を通りがかる人々の目にも留まるよう、仏教の智慧や心のあり方を短く、鋭い言葉で貼り出したのが、現代の形へと受け継がれました。🔶「輝け!お寺の掲示板大賞」の広がり2018年より、公益財団法人「仏教伝道協会(BDK)」が主催している「輝け!お寺の掲示板大賞」が大きな話題を呼んでいます。SNSの普及により、全国各地のお寺に掲げられたユニークで深い言葉が「バズる」ようになり、ありがたさやインパクト、ユニークさを競うコンテストとして定着しました。これにより、お寺の掲示板は「現代のメディア」として、若い世代を含む幅広い層に仏教の視点を届ける窓口となっています。🔶心に刺さる掲示板の言葉たち昨年の大賞(2025年)に選ばれたのは、鹿児島県南さつま市の浄土真宗本願寺派・顯證寺(けんしょうじ)の言葉でした。「自分ファースト」という貧しさ「自分さえ良ければいい」という独りよがりな心を鋭く指摘し、他者への思いやりを問いかける作品です。また、第1回(2018年)の記念すべき大賞作品は、岐阜県郡上市の願蓮寺(がんれんじ)によるものでした。「おまえも死ぬぞ」釈尊衝撃的な一文ですが、これは初期仏典『相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)』にある「生まれたものが死なないということはあり得ない」というお釈迦さまの言葉を、直截的に表現したものです。限られたスペースで、いかに真理を伝えるかという知恵が凝縮されています。🔶仏嚴寺の掲示板に込める願い私自身、仏嚴寺の掲示板に言葉を書く際は、特に「車からでも読みやすいこと」を意識しています。道路沿いという立地を活かし、大きな文字で、時には漢字一文字でメッセージを届けます。例えば「願(がん)」という一文字を掲げた際は、浄土真宗の根本である「阿弥陀如来の四十八願」や、平和への願いなど、見る人の心に「考察」を促すことを意図しました。かつて祖父が書いた「いのちのびのび」といった、ひらがな主体の柔らかい表現もあり、掲示板にはそのお寺や住職の「カラー」が如実に表れます。🔶門前から始まる仏教との対話お寺の掲示板は、日常生活の中でふと立ち止まり、自分を見つめ直す「心の鏡」のような存在です。最近では切り絵やイラストを添えたり、謎解きのような深い言葉を掲げたりするお寺も増えており、掲示板を通じて住職との対話や交流が生まれることもあります。掲示板の言葉を見て「どういう意味だろう?」と興味を持たれたら、ぜひ気軽にお寺の門を叩いてみてください。その一言が、仏教という深い智慧の世界への入り口になるはずです。🔶今週のまとめお寺の掲示板は「伝道掲示板」と呼ばれ、明治時代にキリスト教の影響を受けて、教えを広めるメディアとして始まりました。「輝け!お寺の掲示板大賞」をきっかけに、ユニークで深い言葉がSNSで注目され、仏教の智慧が身近なものとなっています。顕正寺の「自分ファーストという貧しさ」や願蓮寺の「おまえも死ぬぞ」など、短い言葉の中に仏教の本質が込められています。掲示板は車から見やすい文字の大きさや、見る人が考察できる言葉選びなど、お寺ごとの個性や願いが反映されています。掲示板の言葉をきっかけにお寺に立ち寄るなど、門前を起点とした地域との交流も大切にされています。次回テーマは「雨と、仏教」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

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【降誕会】──親鸞聖人のご生涯を辿る

【降誕会】──親鸞聖人のご生涯を辿る

【降誕会】──親鸞聖人のご生涯を辿る

🔶降誕会の由来と激動の時代背景5月21日は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のご誕生をお祝いする「降誕会(ごうたんえ)」です。聖人は西暦1173年(承安3年)、京都の日野の里(現在の京都市伏見区)にて、日野有範(ひのありのり)卿の長男としてお生まれになられました。当時は平安時代の末期、平家が栄華を極める一方で、大火災や大飢饉、疫病といった自然災害が次々と都を襲った「末法の世」とも呼べる激動の時代でした。🔶比叡山での修行と六角堂の夢告親鸞聖人はわずか9歳で出家され、比叡山へと登られました。以来20年間にわたり、煩悩を断ち切り迷いを超える道を求めて懸命に修行に励まれましたが、どうしても真の悟りを見出すことはできませんでした。29歳の時(1201年・建仁元年)、聖人は比叡山を降り、京都の六角堂に百日間の参籠(さんろう)をされました。その95日目の暁、救世観音(くぜかんのん)の夢告を受け、導かれるように法然上人のもとを訪ねられたのです。🔶承元の法難と越後への流罪法然上人が説く「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の教えに出会われた聖人は、誰もが等しく救われる道に確信を得られました。しかし当時、この教えは既存の仏教界から異端視され、ついに1207年(承元元年)、「承元の法難(じょうげんのほうなん)」が起こります。後鳥羽上皇の怒りを買った法然上人は土佐へ(後に実質は讃岐)、親鸞聖人は越後(現在の新潟県)へと流罪に処されました。厳しい逆境の中でも、聖人はお念仏の教えを広め続けられました。🔶「非僧非俗」の歩みと恵信尼公との生活越後の地で、聖人は恵信尼(えしんに)公とご結婚されました。当時の僧侶にとって「肉食妻帯(にくじきさいたい)」は許されないことでしたが、聖人はあえて自らを「非僧非俗(ひそうひぞく)」、つまり僧でも俗人でもない立場に置き、民衆と同じ目線で生活を共にされました。食生活や家族を持つことが救いの妨げにはならないというその姿勢は、どのような環境に生きる人々であっても阿弥陀さまの救いから漏れることはないという、教えの真髄を体現されたものでした。🔶関東での布教と九十年のご生涯流罪が許された後、聖人は家族と共に拠点を関東(常陸国など)に移し、20年以上にわたって農民などの庶民にお念仏を伝えられました。その後、60歳を過ぎて京都へ戻られ、1263年(弘長2年)1月16日に90歳でそのご生涯を終えられました。聖人が好まれた「小豆(あずき)」にちなみ、現在も各地の寺院では法要の際に小豆粥やお赤飯が振る舞われています。どのような条件もつけずに「ありのまま」を救い取る阿弥陀さまの慈悲を説き続けた聖人の歩みは、今も多くの人々の心の支えとなっています。🔶今週のまとめ5月21日は親鸞聖人の誕生日を祝う「降誕会」であり、聖人が歩まれた激動の90年を偲ぶ大切な日です。比叡山での20年にわたる修行を経て、六角堂の参籠での夢告をきっかけに法然上人の教えに出会われました。念仏の禁止という「承元の法難」により流罪となりますが、逆境にあってもお念仏の教えを広め続けられました。「非僧非俗」を掲げ、結婚や肉食といった当時の常識を超えて、民衆と同じ目線で生き抜かれたのが親鸞聖人の特徴です。阿弥陀さまの救いは身分や職業によらず平等であるという教えは、今も変わらず私たちの日常に寄り添っています。次回テーマは「お寺の掲示板」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

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【仏教の旗】──世界を繋ぐ五色の旗印と誓い

【仏教の旗】──世界を繋ぐ五色の旗印と誓い

【仏教の旗】──世界を繋ぐ五色の旗印と誓い

🔶仏旗の由来と国際的な意義仏教には、世界中の仏教徒が共通して掲げる「仏旗(ぶっき)」という旗があります。これは1950年にスリランカで開催された「世界仏教徒連盟(WFB)」の第1回会議において、国際的な仏教の旗として正式に採択されました。お釈迦さまの教えを仰ぎ、仏道を歩む世界中の人々を一つに繋ぐ大切な旗印として、各国の寺院や法要の際などに掲げられています。🔶五色の輝きが表すお釈迦さまの徳仏旗は青、黄、赤、白、橙(だいだい)の五色で構成されており、それぞれにお釈迦さまのすぐれた徳(特徴)が象徴されています。青は「頭髪」の色で乱れのない心を、黄は「身体(金色)」の色で揺るぎない心を、赤は「血液」の色で大いなる慈悲の心を、白は「歯」の色で清らかな心を、そして橙は「聖者の法衣(けさ)」の色で、あらゆる迷いから離れた不動の心を表しています。これらの色が重なり合うデザインには、真理の光が世界を照らす願いが込められています。🔶世界共通の誓い「三帰依文」色とかたちによる象徴が仏旗であるならば、言葉による共通の拠り所が「三帰依文(さんきえもん)」です。「帰依(きえ)」とは、サンスクリット語の「さらな(saraṇa)」の訳語で、「拠り所とする」「全てをお任せする」という意味です。お釈迦さま(仏)、その教え(法)、そして教えを学び伝える集い(僧)の三宝(さんぼう)を敬うこの誓いは、2500年前から変わらぬ仏教徒の入門の言葉であり、世界中どこの寺院でも共通して唱えられています。🔶宗派を超えた仏教徒の連帯世界には多くの宗派があり、長い歴史の中で教えのかたちも多様化してきました。しかし、第二次世界大戦後の1950年、悲惨な戦争を繰り返さないために世界中の仏教徒が協力し合う必要性が叫ばれました。そこで、細かな教えや文化の違いを超えて、「共にお釈迦さまの弟子である」ことを再確認するために定められたのが、この仏旗と三帰依文なのです。これらは、平和への祈りと国際的な協力の精神を象徴する、仏教界の羅針盤といえます。🔶今週のまとめ仏教には「仏旗」と呼ばれる万国共通の旗があり、1950年の世界仏教徒会議で正式に採択されました。旗に使われる五つの色は、お釈迦さまの身体の特徴や徳を象徴しており、それぞれに慈悲や知恵の意味があります。「三帰依文」は仏・法・僧の三宝を拠り所とする誓いの言葉で、世界中の仏教徒が共通して唱えるものです。仏旗や三帰依文の統一は、第二次世界大戦後の平和への願いと、宗派を超えた国際協力の精神から生まれました。考え方や文化が違っても、同じお釈迦さまの教えを歩む旗印を持つことで、私たちは世界と繋がることができます。次回テーマは「降誕会(ごうたんえ)──親鸞聖人のお誕生日」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

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【現代教育の課題と仏教の役割】──情緒を育む「心の教育」

【現代教育の課題と仏教の役割】──情緒を育む「心の教育」

【現代教育の課題と仏教の役割】──情緒を育む「心の教育」

ゲスト:「terakoya 和多志家(「わたしや)」の蓮田大華(はすだ たいが)さん🔶現代教育の現実と子供たちの自己肯定感現在、不登校の小中学生は約30万人を超え、過去最多を記録しています。これに伴い、日本の子供たちの自己肯定感は先進国の中でも最低水準にあるといわれており、「自分にいいところがある」と思えない子供が増えているのが現状です。学校教育に馴染めず、自分の殻に閉じこもってしまう。そうした子供たちの心の叫びに対し、現代の教育システムがどう応えていくかが大きな課題となっています。🔶デジタル社会とSNSがもたらす影響現代の子供たちは常にデジタルの刺激に晒されています。NTTの調査によれば、小学6年生で約6割、中学生では約9割がスマートフォンを所持しています。SNSは便利である反面、子供には刺激が強すぎ、依存性や「見えないいじめ」の温床となる危険も孕んでいます。オーストラリアやアメリカの一部の州でSNSの利用制限が議論されているように、情報過多な社会の中で、いかに自分を見失わずに生きていくかが問われています。🔶仏教における「情操教育」と「教化」の歩み仏教には、明治時代から続く「少年教化(しょうねんきょうけ)」という長い歴史があります。これは単に知識や作法を教えるのではなく、命の尊さや情緒を育む「情操教育」を指します。お寺で開催される「日曜学校」や「子供会」といった活動は、非日常的な空間でお経を読み、お話を聞き、仲間と交流することを通じて、学校や家庭では得られない豊かな情緒を育む大切な役割を担ってきました。🔶「情緒」と「知性」の優先順位教育において知性を磨くことは重要ですが、蓮田大華さんは「情緒(心の育み)」が先にあるべきだと説いています。何のために勉強するのか。それは自分の心や情操を豊かにし、自分や他者を大切にするためであるべきです。情緒という土台があってこそ、初めて知性は正しく活かされます。AIが正解を提示する時代だからこそ、自らの心で答えを見つけ出すための「心の土台」作りが必要不可欠です。🔶金子みすゞの詩にみる命の多様性浄土真宗の門徒でもあった詩人・金子みすゞさんの「みんなちがってみんないい」という言葉は、仏教の慈悲の心を象徴しています。阿弥陀さまという仏さまは、個々の違いを否定せず、ありのままの姿を丸ごと受け入れてくださいます。それぞれの個性を尊重し、認め合うこと。教育に馴染めない子供たちも含め、あらゆる命がそのままで尊いのだと全肯定する仏教のまなざしこそが、現代教育の閉塞感を打ち破る鍵となるのかもしれません。🔶今週のまとめ現在、不登校の増加や自己肯定感の低下など、子供たちを取り巻く教育環境は深刻な課題に直面しています。SNSの普及による強い刺激や「見えないいじめ」から子供を守るため、大人がそのリスクを理解する必要があります。仏教には「教化」を通じて子供たちの情操を育んできた長い歴史があり、お寺はその拠り所としての役割を持っています。知性を磨くこと以上に、まずは情緒(心)を育むことを優先する教育のあり方が、今の時代には求められています。「みんなちがってみんないい」という教えの通り、個々の違いを認め合い、命を丸ごと肯定する視点が大切です。次回テーマは「仏教の旗」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。ゲストは「terakoya 和多志家(わたしや)」の蓮田大華(はすだ たいが)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

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【仏教と教育】──寺子屋の精神と二宮尊徳の教え

【仏教と教育】──寺子屋の精神と二宮尊徳の教え

【仏教と教育】──寺子屋の精神と二宮尊徳の教え

ゲスト:「terakoya 和多志家」の蓮田大華(はすだ たいが)さん🔶教育の基盤としての寺子屋文化江戸時代、日本各地に広がった「寺子屋」は、お寺や民家を舞台に、読み書きそろばんといった「実学」を教える地域密着型の教育機関でした。この寺子屋こそが当時の日本の高い識字率を支え、明治5年の「学制(がくせい)」発布以降の近代教育の確かな土台となりました。お寺と教育は、歴史的に切っても切り離せない密接な関係にあり、学びを地域で育む精神は今もなお受け継がれています。🔶改革者としての二宮金次郎(二宮尊徳)教育の現場で親しまれてきた「二宮金次郎」といえば、薪を背負いながら本を読む銅像のイメージが強いですが、彼は生涯で600以上の農村を復興させた偉大な改革者でもありました。金次郎が大切にしたのは、学びと行動を一致させること。単に知識を得るだけでなく、それを身近な人や社会のためにどう活かすかを考える。この「生きた学び」こそが、実学の本質であるといえます。🔶『仏説観無量寿経』にみる独自の解釈二宮尊徳は、浄土真宗で大切にされる『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』の言葉、「光明遍照(こうみょうへんじょう) 十方世界(じっぽうせかい)念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)摂取不捨(せっしゅふしゃ)」を独自に解釈していました。彼はこの「如来の光」を、日々恵みを与えてくれる「太陽」に例えて農民たちに説きました。難しい教理を、農作業に励む人々の生活に即したメタファー(比喩)を用いて分かりやすく伝える。ここにも、学びを生活に結びつける彼の姿勢が表れています。🔶現代に活きる寺子屋式の異学年交流現在、熊本市中央区新大江で「terakoya 和多志家(わたしや)」を運営する蓮田大華(はすだたいが)さんは、学年の枠を超えた教育を実践されています。同じ年齢で区切られる学校教育とは異なり、異なる学年の子供たちが同じ空間で学び合うことで、自然と教え合いやコミュニケーションが生まれます。「誰かに教えること」は最大の学びであり、この伝統的な寺子屋のシステムは、現代においても非常に画期的な学習方法として注目されています。🔶「積小為大」の精神と継続の力二宮尊徳の教えに「積小為大(せきしょういだい)」という言葉があります。小さなことを積み重ね、習慣にしていくことで、やがて大きな事を成し遂げられるという意味です。これは現代の子供たちにとっても、そして私たち大人にとっても極めて大切な視点です。5月23日(土)には、熊本市国際交流会館(または新都心プラザホール)にて映画『二宮金次郎』の上映会も予定されています。彼の生涯を知ることは、私たちの教育や生き方を見つめ直す貴重なご縁となるでしょう。🔶今週のまとめ江戸時代の寺子屋教育は、日本の近代教育の基盤となり、高い識字率と商業の発展に大きく寄与しました。二宮金次郎(尊徳)は、学びを日常生活や社会復帰に繋げる「実学」を重んじた改革者でした。尊徳は『観無量寿経』の教えを、農民に馴染み深い「太陽」に例えて説くなど、独自の柔軟な解釈を持っていました。現代の「寺子屋」的な異学年教育は、教え合う環境を通じて子供たちの心と知識を育む優れた手法です。「積小為大」の教えの通り、日々の小さな積み重ねを大切にすることが、豊かな学びと人生に繋がります。次回テーマは「仏教と現代教育(後編)」です。ゲストの蓮田大華さんと共にお送りします。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。ゲストは「terakoya 和多志家」の蓮田大華(はすだ たいが)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

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【仏教と言葉】──日常に息づく知恵と語源の妙

【仏教と言葉】──日常に息づく知恵と語源の妙

【仏教と言葉】──日常に息づく知恵と語源の妙

🔶仏教用語禁止クエストにみる言葉の浸透最近、インターネット上で「仏教用語禁止クエスト」というRPGが注目を集めています。これは、選択肢の中に仏教用語が含まれていると即座にゲームオーバーになるという斬新なルールですが、実はクリアするのは至難の業です。私たちが何気なく使う「ウロウロ(うろうろ)」という言葉さえ、煩悩が漏れ出ている状態を指す「有漏(うろ)」という仏教語が語源です。それほどまでに、仏教は私たちの言葉の中に深く浸透しています。🔶隠元禅師がもたらした豊かな食文化食べ物の名前にも仏教の足跡が多く残されています。例えば「インゲン豆」は、江戸時代に中国から来日した黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖、隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師が日本へ持ち込んだことに由来します。隠元禅師は他にもスイカ、レンコン、タケノコなどを伝え、さらに木魚(もくぎょ)や煎茶の作法である茶礼(されい)を広めるなど、日本の生活文化に多大な貢献をされたお坊さんです。🔶「ありがとう」と「挨拶」に込められた真意私たちが日常で交わす美しい言葉も、その根源をたどれば仏教に行き着きます。「ありがとう」は、『法句経(ほっくきょう)』などに説かれる「人間に生まれることの難しさ」を指す「有り難し」という言葉が語源です。また「挨拶(あいさつ)」は、禅宗の「一挨一拶(いちあいいっさつ)」という言葉に由来します。本来は師匠と弟子、あるいは修行僧同士が言葉や動作によって悟りの深さを試す真剣勝負の場を指していましたが、それが転じて敬意を込めた交流の言葉となりました。🔶現代と仏教で意味が反転する言葉の妙時代とともに、本来の意味とは逆のニュアンスで使われるようになった言葉も少なくありません。「無学(むがく)」は現在では「学問がない」という意味ですが、仏教では「もはや学ぶ必要がないほどの悟りの境地(阿羅漢果)」を指します。また「分別(ふんべつ)」があることは一般に良しとされますが、仏教では物事を主観で区別してとらわれることを意味し、むしろ何にもとらわれずありのままを見る「無分別智(むふんべつち)」こそが尊い知恵であると説かれます。🔶「我慢」と「ご冥福」の本来の捉え方現代では美徳とされる「我慢(がまん)」も、本来は仏教が戒める「七慢(しちまん)」の一つで、自分に固執し他を軽んじる「慢心」を意味します。また、葬儀で使われる「ご冥福を祈る」という表現も、注意が必要です。浄土真宗では「冥福」が指す「冥界(死後の暗い苦しみの世界)」へ行くことはなく、阿弥陀さまの導きで即座に仏とならせていただく(往生即成仏)ため、この言葉は用いず、「お悔やみ申し上げます」と伝えるのが作法です。🔶今週のまとめ「仏教用語禁止クエスト」というゲームが示す通り、私たちの日常会話は意識せずとも仏教用語であふれています。インゲン豆やスイカなどを伝えた隠元隆琦禅師のように、お坊さんは日本の文化や食の発展に大きな役割を果たしました。「ありがとう」や「挨拶」といった言葉には、命の尊さや心の交流を重んじる仏教の精神が宿っています。無学や分別のように、仏教本来の意味と現代の解釈が大きく異なる言葉を知ることで、真理への理解が深まります。我慢や冥福といった言葉の由来を正しく知ることは、自分の心のあり方や、大切な方を送る際の手次ぎを整える助けとなります。次回テーマは「仏教と教育」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

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【熊本地震から10年】──月明かりに照らされる「救い」の心

【熊本地震から10年】──月明かりに照らされる「救い」の心

【熊本地震から10年】──月明かりに照らされる「救い」の心

🔶2度の震度7がもたらした甚大な被害2016年(平成28年)4月14日午後9時26分、そしてそのわずか2日後の16日未明。熊本を襲ったのは、観測史上類を見ない「2度の震度7」という激震でした。災害関連死を含め276名もの尊い命が失われ、家屋の倒壊や墓石の転倒など、街の景色は一変しました。震災から10年が経過した今、お寺の建物の歪みや修復された墓石を目にするたび、あの時の恐ろしさと震災の爪痕の深さを改めて思い知らされます。🔶SNSの有用性とフェイクニュースの恐ろしさ震災当時、情報のライフラインとなったのがSNSでした。断水時の給水情報や入浴支援など、生活に直結する情報の拡散には目を見張るものがありました。しかしその一方で、ライオンが逃げ出したという虚偽の情報(デマ)が拡散されるなど、情報の真偽が問われる事態も発生しました。混乱の中で何を信じるべきか、SNSの便利さと隣り合わせにある「情報の不確かさ」への危機管理は、現代の防災における大きな課題となりました。🔶法然上人の歌にみる月明かりの慈悲不安な夜、ふと見上げた夜空に輝く月明かりに救われた記憶があります。法然上人が詠まれた「月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の心にぞすむ」という歌があります。月明かり(仏さまの慈悲)は、どのような寂しい里にも平等に降り注いでいますが、その光を仰ぎ見る人の心の中にこそ、月は静かに宿ってくださるという意味です。暗闇の中で自分を包み込んでくれる月明かりは、まさに阿弥陀さまの救いの光そのものでした。🔶震災における心のよりどころとしての仏教仏教の教えは、直接的に震災という現実を消し去るものではありません。しかし、どのような絶望の淵にあっても「私を見捨てない仏さまがご一緒である」という確信は、折れそうな心を支える大きなよりどころとなります。目に見える救済だけでなく、目に見えない「心の支え」があることは、人が独りではないと感じ、前を向くための静かな、しかし確かな推進力となるのです。🔶10年を経て語り継ぐ防災とご縁の絆震災から10年が経ち、街は復興が進みましたが、人と人との繋がりの大切さは変わりません。災害を乗り越える力は、日頃からの近所付き合いや地域の絆の中にあります。災害はいつどこで起こるかわかりません。10年という節目に当時の記憶を風化させることなく、常に「防災」の意識を持ち、互いに支え合える「ご縁」を日々大切に育てていくことが、私たちに課せられた大切な役割です。🔶今週のまとめ2016年の熊本地震から10年。2度の震度7という激震がもたらした記憶は、今も私たちの心に深く刻まれています。震災時はSNSが有用な情報源となる一方で、デマの拡散という恐ろしさもあり、情報の扱い方を学ぶ機会となりました。法然上人の歌「月かげの」に象徴されるように、どんな苦難の時でも平等に注がれる仏さまの光が、心の支えとなりました。宗教の役割は、どうしようもない不安に寄り添い、「独りではない」という安心感を人々に届けることにあります。10年の節目に改めて防災の意識を高め、地域の人々との繋がりという「ご縁」を大切にしていくことが、未来への備えとなります。次回テーマは「仏教と言葉(ありがとうの由来)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

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【花まつり】──お釈迦さまの誕生と「ブルーメンフェスト」の心

【花まつり】──お釈迦さまの誕生と「ブルーメンフェスト」の心

【花まつり】──お釈迦さまの誕生と「ブルーメンフェスト」の心

🔶灌仏会の由来とルンビニの花園4月8日は「花まつり」です。お釈迦さまのお誕生日をお祝いするこの行事は、正式には「灌仏会(かんぶつえ)」と呼ばれます。およそ2,500年前、現在のネパールにあるルンビニの花園でお生まれになったお釈迦さまを祝し、色とりどりの花で飾られた「花御堂(はなみどう)」が作られます。天から「甘露(かんろ)の雨」が降り注いだという伝承にちなみ、誕生仏の像に甘茶をかける風習が今に伝わっています。🔶白い象の夢と摩耶夫人の誕生お釈迦さまの誕生には神秘的なエピソードがあります。母である摩耶夫人(まやぶにん)が、白く大きな象が体の中に入ってくる夢を見られ、お釈迦さまを身ごもられたといわれています。お生まれになったお釈迦さまは、すぐに七歩歩まれ、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言葉を発せられました。これは「この世に生きるあらゆる命は、何ものにも代えがたい尊いものである」という、命の平等を宣言されたお言葉です。🔶「花まつり」という名称の意外な歴史お釈迦さまのお誕生日を祝う行事自体は非常に古く、日本では推古14年(606年)に法興寺(ほうこうじ/現在の飛鳥寺)で行われた記録が『日本書紀』に残されています。しかし、「花まつり」という呼び名の歴史は意外にも浅く、明治34年(1901年)にドイツへ留学していた僧侶らが、ベルリンのホテルで開催したのが始まりです。🔶ドイツ語「ブルーメンフェスト」から広まった名称当時、ベルリンに集まった憲法学者の美濃部達吉(みのべたつきち)さんら18名の日本人は、お釈迦さまの生誕を祝う「ブルーメンフェスト(ドイツ語で「花の祭り」)」を開催しました。このイベントがドイツで大いに盛り上がり、大正5年(1916年)に日本でも日比谷公園で大規模な「花まつり」が挙行されたことで、この名称が全国に定着しました。伝統的な仏教行事が、ヨーロッパの文化と交わって新しい名前を得たという非常に興味深い歴史があるのです。🔶宗派を越えた仏教共通の喜び花まつりは、浄土真宗、浄土宗、日蓮宗、禅宗など、宗派の垣根を越えてお祝いできる仏教共通の祭典です。熊本でも、仏教連合会による「稚児(ちご)行列」が下通り・上通りのアーケードで行われるなど、地域に親しまれています。かつて甘いものが贅沢品だった時代、甘茶を分かち合うことは大きな喜びでした。時代は変わっても、甘茶の風味を楽しみながら、お釈迦さまが示された「命の尊さ」に思いを馳せる大切なひとときです。🔶今週のまとめ4月8日はお釈迦さまの誕生日を祝う「花まつり(灌仏会)」で、ルンビニでの誕生を伝えています。お釈迦さまは誕生の際「天上天下唯我独尊」と仰り、すべての命が等しく尊いことを示されました。「花まつり」という名称は1901年にベルリンで開かれた「ブルーメンフェスト」が語源となっています。渡辺海旭和上や美濃部達吉氏らがドイツで始めた祭りが、現在の日本の花まつりのルーツとなりました。宗派を越えて甘茶や稚児行列を楽しみ、命の恵みを分かち合うのが仏教共通の願いです。次回テーマは「熊本地震(発生から10年)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

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【仏教と桜】──散りゆく姿にみる命の真実

【仏教と桜】──散りゆく姿にみる命の真実

【仏教と桜】──散りゆく姿にみる命の真実

🔶良寛和尚の辞世に見る諸行無常江戸時代の曹洞宗の僧侶であり、歌人としても知られる良寛(りょうかん)和尚の辞世の句に「散る桜 残る桜も散る桜」という歌があります。今を盛りと咲き誇り、枝に残っている桜も、やがては等しく散っていく。この歌は、仏教の根本的な教えである「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を鮮やかに示しています。私たちは今、精一杯に生きていますが、同時に誰もがいつかは命を終えていく存在であることを、散りゆく桜の姿を通して良寛さんは優しく、しかし厳かに語りかけています。🔶親鸞聖人九歳の決意と「仇桜」の歌浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)聖人は、わずか九歳の春に京都の青蓮院(しょうれんいん)で出家されました。その際、得度(とくど)の儀式の導師を務められた慈円(じえん)和尚が、夜も更けたため「儀式は明日にしましょう」と提案されました。しかし、聖人は「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら)夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」という歌を詠み、今夜のうちの出家を懇願されました。「明日もあると思っているこの心は、嵐が吹けば夜のうちに散ってしまう桜のように儚いものです」という決意は、慈円和尚の心を強く打ち、その夜のうちに儀式が執り行われました。🔶花の終わりを彩る日本語の感性日本語には、花の終わりを表現する独特の言葉が数多く存在します。桜は「散る」、梅は「こぼれる」、椿は「落ちる」、牡丹は「崩れる」といったように、それぞれの花が命を終える姿を繊細に捉えています。これらは単なる自然現象の描写ではなく、命が尽きゆく瞬間にもその個性に合わせた美しい名前を与えようとした、先人たちの深い慈しみの心の表れといえるでしょう。🔶「死」を「往く」と捉える往生の教えでは、人の命の終わりはどう表現されるのでしょうか。「死ぬ」や「終わる」といった言葉がありますが、浄土真宗においては「往(ゆ)く」という言葉を用います。これは「往生(おうじょう)」、すなわち「浄土に往(い)き生まれる」ことを意味します。命が終わればすべてが消えてなくなるのではなく、阿弥陀さまの導きによって仏さまとして新しいステージへと生まれていく。死を「終わり」ではなく、次への「始まり」として捉えるこの教えは、死の恐怖に立ちすくむ私たちに大きな安心を与えてくれます。🔶桜の散り際が問いかける今を生きる姿勢桜の美しさは、その華やかさとともに、潔く散っていく儚さにあります。私たちは一日の終わりを迎えるたびに、確実に人生の最期へと近づいています。しかし、その終わりをただの「消滅」と見るか、お浄土への「往生」と見るかによって、今を生きる心持ちは大きく変わります。散りゆく桜を眺めながら、自らの命の尊さと、阿弥陀さまに抱かれた「必ず救われていく命」であるという喜びに出会ってほしい。桜という花は、そのような問いを私たちに投げかけているのです。🔶今週のまとめ良寛和尚の「散る桜 残る桜も 散る桜」という歌は、すべての命が等しく無常であることを教えています。九歳の親鸞聖人が詠まれた歌は、明日をも知れぬ命の儚さと、今この瞬間に仏道へ進む強い決意を示したものです。日本語には「散る」「こぼれる」「落ちる」など、花の終焉を慈しむ豊かな表現が備わっています。浄土真宗では死を「終わり」とせず、お浄土へ「往(ゆ)く(往生する)」という希望ある言葉で捉えます。桜の散り際を見つめることは、自らの命のあり方に向き合い、仏法に出会う尊いご縁となります。次回テーマは「花まつり」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

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【仏教と料理】──命の根源を見つめる「お斎(おとき)」の心

【仏教と料理】──命の根源を見つめる「お斎(おとき)」の心

【仏教と料理】──命の根源を見つめる「お斎(おとき)」の心

🔶お釈迦さまと乳粥にみる食の原点仏教において「食」は命の根源であり、悟りへの道とも深く関わっています。かつて過酷な苦行で命を落としかけたお釈迦さまを救ったのは、村娘スジャータが捧げた一杯の「乳粥(ちちがゆ)」でした。この供養によって体力を回復されたお釈迦さまは、極端な苦行では真の悟りを得られないと気づき、中道の教えを見出されました。乳粥という一つの料理こそが、仏教の歴史を大きく動かす原点となったのです。🔶「醍醐味」の語源と仏教の深い縁私たちが日常的に使う「醍醐味(だいごみ)」という言葉は、仏教経典の『涅槃経(ねはんぎょう)』に由来しています。経典では、牛乳を精製する過程を五段階(乳・酪・生酥・熟酥・醍醐)で示し、最後に出来上がる最高級の乳製品を「醍醐」と呼び、それを仏の教えに例えました。また、カルピスの名称も、この最高級の乳漿を意味するサンスクリット語「サルピル・マンダ」を参考にして生まれたといわれており、仏教と食には意外な繋がりがあります。🔶浄土真宗における肉食と親鸞聖人の歩み仏教では不殺生戒(ふせっしょうかい)に基づき肉食を避ける文化がありますが、浄土真宗では伝統的に肉食を禁じてきませんでした。これは、自らの修行や功徳によって仏になるのではなく、阿弥陀さまの無差別な救いの中に生かされているという教えに基づいています。親鸞聖人ご自身も「非僧非俗(ひそうひぞく)」として一般の人々と同じ生活を送り、食の制限を設けませんでした。ちなみに、聖人が好まれたのは「小豆(あずき)」であり、現代でも「御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)」などの法要では伝統的な小豆粥が振る舞われています。🔶仏事の食事「お斎」に込められた意味法事などで供される食事を「お斎(おとき)」と呼びますが、これは本来、僧侶が食事を摂る決まった時間を指す「斎時(さいじ)」に由来しています。私の祖父である高千穂正史(たかちほまさふみ)は、法事の席で「亡き人の思い出を語り合うことこそが、何よりのご馳走である」と説いていました。形としての料理だけでなく、共に亡き人を偲び、命の繋がりを確認するその豊かな時間が、私たちの心を育む糧となるのです。🔶命をいただく感謝の作法と追憶私たちは日々、多くの命に支えられて生かされています。浄土真宗では、食前には「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうを恵まれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」と唱え、食後には「尊いいのちを、おいしくいただきました。御報謝(ごほうしゃ)に努めます。おかげでごちそうさまでした」と合掌します。飽食の時代だからこそ、食前食後の言葉を通じ、命への感謝と亡き人への追憶を大切にしていきたいものです。🔶今週のまとめ仏教と食には密接な関係があり、お釈迦さまを救った乳粥は仏教の原点ともいえます。「醍醐味」という言葉は、牛乳の精製過程で最高の味を仏の教えに例えた経典の言葉が語源です。浄土真宗では修行による制限を設けず、ありのままの生活の中で命をいただく感謝を説きます。法事の食事「お斎(おとき)」は、亡き人の思い出を分かち合う「心のご馳走」をいただく場です。食前食後の言葉を通じて、多くの命に支えられている事実を喜び、感謝を深めることが大切です。次回テーマは「仏教と桜」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

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【春のお彼岸】──「聴く」ことでつながる浄土の心

【春のお彼岸】──「聴く」ことでつながる浄土の心

【春のお彼岸】──「聴く」ことでつながる浄土の心

🔶お彼岸の由来と波羅蜜多の心3月20日の「春分の日」は、お彼岸の中日です。お彼岸の語源は、サンスクリット語の「パーラミター」を音写した「波羅蜜多(はらみった)」であり、「悟りの岸へ至る」ことを意味します。太陽が真東から昇り、真西に沈むこの時期、私たちは西に沈む太陽の姿に「西方浄土(さいほうじょうど)」を想います。科学的な目線を超えて、阿弥陀さまの限りない命と光の救いに心を寄せる、それが浄土真宗のお彼岸の歩みです。🔶外陣の広さにみる「聴聞」の精神浄土真宗の本堂には、阿弥陀さまを安置する「内陣(ないじん)」と、参拝者が座る「外陣(げじん)」があります。特徴的なのは、参拝者が座る外陣が非常に広く造られている点です。これは、お救いの話を聞く「聴聞(ちょうもん)」を何よりも大切にするためです。多くの人が集まり、共に教えを聞くための場所が、お寺の設計そのものに組み込まれているのです。🔶お寺から生まれた落語の伝統お寺の本堂には、僧侶が教えを説くための「高座(こうざ)」や、話を補足するための黒板、マイクが備えられています。実は、日本の伝統芸能である「落語」の起源は、お坊さんの法話にあります。江戸時代の僧侶で「落語の祖」と呼ばれる安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)上人は、法話を基に滑稽な話を生み出しました。寄席の用語である「前座(ぜんざ)」も、法話の前に司会を務める若い僧侶が由来となっています。🔶蓮如上人が説く「聴聞」の極意浄土真宗の中興の祖である蓮如上人は、『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』の中で「仏法は聴聞に極まることなり」と説かれました。聴聞とは、阿弥陀さまの救いのお話を、そのまま真っ直ぐに聞き届けることです。「なぜこの私が救いの目当てとされたのか」という慈悲の物語を繰り返し聞かせていただく「法座(ほうざ)」は、お寺にとって最も重要な場なのです。🔶お墓参りから法話への一歩お彼岸といえばお墓参りですが、それだけでなく、ぜひお寺の本堂で開催される「法話」にも足を運んでいただきたいのです。最近ではお寺の掲示板やSNSで情報を発信する寺院も増えています。亡き人を偲ぶお墓参りという尊いご縁をきっかけに、仏さまの心を聞かせていただく。それが、自分自身の命を見つめ直し、豊かな人生を歩むためのお彼岸の本来の過ごし方といえます。🔶今週のまとめお彼岸はサンスクリット語の「波羅蜜多」を語源とし、悟りの世界であるお浄土を想う期間です。浄土真宗のお寺は教えを聞く「聴聞」を重視するため、参拝者が座る外陣が広く造られているのが特徴です。落語の祖とされる安楽庵策伝上人は僧侶であり、落語の形式や「前座」などの用語はお寺の法話が由来です。蓮如上人は「仏法は聴聞に極まる」と示され、仏さまのお救いをそのまま聞くことの大切さを説かれました。お彼岸はお墓参りだけでなく、お寺で法話を聞くことを通じて仏さまの心に触れる尊いご縁の場です。次回テーマは「仏教と料理」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

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