高千穂さんのご縁です。高千穂さんのご縁です。

高千穂さんのご縁です。

RKKラジオ

仏教にまつわる色々なお話を、分かりやすくお話していただく番組です。仏教由来の言葉、豆知識、歴史、迷信、風習、教義、作法などなど。出演は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正さん。お相手は、丸井純子さん。お悩み相談もメールで受け付け中!goen@rkk.jp▼メールgoen@rkk.jp★地上波ではRKKラジオ(熊本)FM91.4 AM1197で、毎週水曜日 午後6時10分から放送中。是非生放送でもお聴きください。

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エピソード

【紅葉から学ぶ】──『葉っぱのフレディ』と永観堂のみかえり阿弥陀

【紅葉から学ぶ】──『葉っぱのフレディ』と永観堂のみかえり阿弥陀

🔶紅葉の季節と命の「無常」「縁起」11月を迎え、木々の紅葉が赤く色づく季節となりました。美しく彩られた紅葉がやがて散りゆく姿は、私たちに命の儚さである「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を教えてくれます。しかし、葉っぱはただ散って終わるわけではありません。地面に落ちて土に還り、それが養分となってまた次の新しい命が芽吹いていくという「縁起(えんぎ)」の教え、すなわち命の繋がりと循環のあり様を体現しています。浄土真宗の教えに照らせば、そうした儚くも尊い命を生きる私たちだからこそ、阿弥陀さまの慈悲の救いが常に届いているということを、紅葉の姿から深く学ぶことができます。🔶絵本『葉っぱのフレディ』が伝える死と変化アメリカの哲学者レオ・ブスカーリアが書いた絵本『葉っぱのフレディ――いのちの旅』は、まさにこの仏教のみ教えに通じる物語です。春に生まれた大きな木の葉っぱ・フレディは、物知りの親友ダニエルから「人間に木陰を作ることが葉っぱの役割であること」や「同じ場所で生まれても、一つひとつの葉っぱの条件や色は違うこと」を教わりながら成長します。やがて季節が移ろい、木枯らしと雪がやってくると、仲間たちは次々と落ちていきます。ダニエルはそれを「引っ越し」、つまり命の終わりだと教えました。「死ぬのが怖い」と怯えるフレディに対し、ダニエルは「死ぬことは怖いことじゃない。あらゆるものは常に変化している。死ぬことも変化することの一つだよ」と優しく諭します。🔶土に還り、命はまた繋がっていく初雪の日、最後まで残っていたフレディもついに枝から離れ、雪の上に落ちて命を終えていきました。しかし、フレディはただ死んで消えてしまったのではありません。生まれた場所の土へと還り、木の命の一部となって、再び春に芽吹く新しい命へと繋がっていったのです。紅葉の幻想的な美しさは、私たち自身の「命の終わり」という避けられない問題と密接に結びついています。葉っぱの命の移り変わりは、死を単なる終焉ではなく、大いなる命の繋がり(縁起)の中にある一つの変化として受け止める視座を与えてくれます。🔶紅葉の名所・永観堂の「みかえり阿弥陀」紅葉の名所といえば、熊本では秘境・五家荘(ごかのしょう)などが有名ですが、京都で特におすすめしたいのが「永観堂(えいかんどう・禅林寺)」です。永観堂の本堂には、非常に珍しい「みかえり阿弥陀(見返り阿弥陀如来)」がお祀りされています。一般的な阿弥陀さまは真正面を向いておられますが、この阿弥陀さまは首を左斜め後ろに振り返っておられます。これには伝承があり、熱心に念仏を唱えていた永観(ようかん)という僧侶に対し、阿弥陀さまが振り返って「永観、おそし(遅いよ)」とお声をかけられた姿だとされています。高千穂さんはこれを、「早くみ教えに出会いなさい」と私たちを促し、導きを待ってくださっているお慈悲(ご催促)の姿として味わっておられます。紅葉の美しさに心を打たれると同時に、み教えを伝えてくれる仏さまに出会う「紅葉狩り」は、大変尊いご縁となります。🔶今週のまとめ【1】赤く色づき散りゆく紅葉は、命の儚さ(諸行無常)とともに、土に還り新しい命へと繋がっていく命の循環(縁起)を教えてくれます。【2】絵本『葉っぱのフレディ』(作:レオ・ブスカーリア)は、葉っぱの一生を通じて、死を恐れるのではなく「変化の一つ」として受け止める命の旅を描いています。【3】フレディが土に還り次の命へ繋がっていく物語は、私たち自身の命の終わりと大いなる繋がりを見つめ直す仏教の死生観と深く通じています。【4】京都の紅葉の名所である永観堂には、斜め後ろを振り返る大変珍しい「みかえり阿弥陀」が安置されており、参拝者に深い印象を与えます。【5】みかえり阿弥陀の姿は、「早く教えに出会いなさい(永観、おそし)」と私たちを促すご催促(慈悲)の表れであり、美しい紅葉と仏法に同時に出会うご縁の大切さを教えてくれます。次回テーマは「仏教と福祉」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【布施の心とキャッシュレス】──ダーナの精神と現代の寺院事情

【布施の心とキャッシュレス】──ダーナの精神と現代の寺院事情

🔶お布施の語源「ダーナ」と三つの施しお布施の語源は、古代インドのサンスクリット語「ダーナ(Dāna)」に由来し、「自分の持ち物を惜しみなく他人に与える(施し)」という意味があります。仏教におけるお布施には、大きく分けて金銭や物品を施す「財施(ざいせ)」、仏さまの教えを説く「法施(ほうせ)」、人々の恐怖や不安を取り除く「無畏施(むいせ)」の3種類があります。また、お金や物がなくても笑顔や優しい言葉などで実践できる「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えもあります。🔶見返りを求めない「お布施」の本質お布施において最も基本的な考え方は、「見返りを求めない」ということです。「これだけ施してやった」「これだけ払ったのだから」という見返りや自己顕示欲を離れ、純粋に相手を思いやり、ともに助け合って喜ぶことがお布施の本来の姿です。つまり、お布施とは現代のビジネスにおける「サービスに対する対価(サービス料)」ではなく、あくまで仏さまや仏法に対する自発的な「お気持ち」の表現なのです。🔶寺院におけるキャッシュレス化の波と背景近年、大きなお寺や観光寺院を中心にお賽銭や拝観料の「キャッシュレス決済」が導入され始めており、今年からは宗教法人専用の決済サービスも登場しています。この背景には、外国人観光客(インバウンド)や現金を持ち歩かない若い世代のニーズへの対応に加えて、「大量の硬貨(小銭)を銀行で入金・両替する際の手数料が非常に高く、寺社側の深刻な負担になっている」という現実的な経営課題があります。人手不足の中で大勢の参拝者をさばくための苦肉の策という側面も大きいのです。🔶効率化(タイパ・コスパ)と失われゆくぬくもり一方で、お布施やお賽銭のキャッシュレス化に対しては「お賽銭箱に小銭を投じる(チャリンと鳴らす)体験や、直接手渡しする際のぬくもりが失われてしまう」といった懸念や批判の声もあります。現代はコストパフォーマンス(コスパ)やタイムパフォーマンス(タイパ)といった効率が極端に重視される時代ですが、情緒や心を根底に置かなければ、宗教儀式が単なる「デジタル決済の作業」へと変質してしまう恐れがあります。🔶時代が変わっても変わらない「ダーナ」の心お札や授与品など、金額が明確に決まっているものに対するキャッシュレス決済は合理的かもしれません。しかし、「お気持ち」であるお布施までが決済サービスに組み込まれ、プラットフォームへの手数料や税金の問題が絡んでくると、本来の「ダーナ」の精神から外れてしまう難しさがあります。時代の流れとして新しい技術や変化を受け入れることは避けられませんが、どれほど決済手段が変わろうとも、「お布施=ダーナ(惜しみない施し)」であるという本質と心を決して見失わないことが何よりも大切です。🔶今週のまとめ【1】「お布施」はサンスクリット語の「ダーナ(惜しみない施し)」に由来し、財施・法施・無畏施・無財の七施など様々な実践方法があります。【2】お布施の根本は「見返りを求めない」ことであり、サービスに対する対価(料金)ではなく、仏法に対する自発的な「お気持ち」です。【3】近年、観光寺院などでキャッシュレス化が進む背景には、参拝者のニーズの変化や、硬貨取扱手数料の高騰による寺社側の経営圧迫があります。【4】効率化が進む一方で、「お賽銭箱に入れる体験や受け渡しのぬくもりが失われる」といった情緒面での懸念も指摘されています。【5】時代と共に決済手段が変化しても、お布施が単なるビジネスの支払いにならないよう、「ダーナ」の精神と心を忘れないことが大切です。次回テーマは「紅葉から学ぶ」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【浄土真宗と菊(聴く・聞く)】──菊の花に学ぶ「聴聞」と阿弥陀さまの救い

【浄土真宗と菊(聴く・聞く)】──菊の花に学ぶ「聴聞」と阿弥陀さまの救い

🔶日本人に馴染み深い「菊」と仏花の歴史毎年秋(10月中旬〜11月頃)になると、西本願寺をはじめ各地のお寺で「献菊展(けんぎくてん)」が行われます。菊はパスポートや皇室の紋章(菊花紋章)にも用いられるなど、日本人にとって非常に格式高く馴染み深い花です。一方で、菊といえば「お葬式やお墓にお供えする仏花(ぶっか)」というイメージを持つ方も多いでしょう。しかし、お葬式などで菊が仏花として定着したのは、実は戦後(昭和時代)になってからのことです。昔の葬列では、その季節の野の花など、自然の中にある花が使われていました。戦後になり、温室栽培などの技術発展によって一年中安定して菊が栽培できるようになり、日持ちの良さも相まって仏花として広く用いられるようになったという歴史があります。🔶花の終わりを表す「菊が舞う」という風流な表現日本には花の終わり(散り方)を表す美しい言葉の文化があります。例えば「桜は散る」「梅はこぼれる」「椿は落ちる」などと表現されますが、菊の場合は「菊が舞う」と表現されます。菊は枯れても花びらがバラバラに散って落ちることがなく、花全体が垂れるように枯れていきます。その姿が、まるで風に吹かれて舞い踊っているように見えることから「舞う」と表現されました。こうした風流な表現からも、日本人が菊という花に特別な感情を寄せてきたことがわかります。🔶「聴」と「聞」の違いと浄土真宗の「聴聞」浄土真宗において、お寺で阿弥陀さまの教えを聞くことを「聴聞(ちょうもん)」といいますが、この「聴」と「聞」の二つの漢字には明確な違いがあります。「聴(耳へん)」は、自分から意識して自発的に聞こうとすること(例:ラジオを聴く)を指します。一方、「聞(門がまえ)」は、聞こうとしなくても向こうから自然に耳に入ってくること(例:救急車のサイレンが聞こえる)を指します。浄土真宗では、この「聴聞」という言葉について、「『聴』は仏さまにお許しをいただいて聞かせていただくこと、『聞』は仏さまの教えを疑いなく信じて聞き入れること」と深く味わいます。最初は自分の意志で教えを聞きに行き、やがて阿弥陀さまの呼び声(教え)が私に至り届き、それをそのまま信じて受け入れる身になるという、仏法との尊い出会いが表されています。🔶親鸞聖人が説く「聞」──仏願の生起本末を聞く浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』において、「何を聞くのか」という問いに対し、次のように示されています。> 「聞(もん)といふは、衆生(しゅじょう)、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」「生起(しょうき)」とは、なぜ阿弥陀仏が私を救おうと本願を起こされたのかという理由です。それは、私が自己中心的な煩悩にまみれた存在であるからです。「本末(ほんまつ)」とは、そんな迷いの命である私を、必ず悟りの仏へと成らせるという阿弥陀さまの確かな働きのことです。つまり、私のありのままの醜い姿(生起)と、私を絶対に救い取るという阿弥陀さまの広大な慈悲(本末)を、私の都合や計らいを交えずにそのままお聞かせいただく(疑心あることなし)ことこそが、浄土真宗における「聞(聴聞)」の本質なのです。🔶色眼鏡を外して「ありのまま」をお聞かせいただく菊の花の本質は同じであるにもかかわらず、ある人は「格式高い尊い花」と愛で、ある人は「お葬式の縁起の悪い花」と避けます。それは、私たちが物事を自分の都合や価値観という「色眼鏡」を通してしか見られないからです。聴聞とは、そうした自己中心的な見方しかできない煩悩具足(ぼんのうぐそく)の自分自身のありのままの姿に気づかされ、そんな私こそが阿弥陀さまの救いの「目当て」であるとお聞かせいただく尊い時間です。菊の花を仏前にお供えするたびに、自分の色眼鏡に気づき、教えを聞き受ける「聴聞」の大切さを味わうご縁としたいものです。🔶今週のまとめ【1】西本願寺の「献菊展」や皇室の紋章など、日本人に馴染み深い菊の花が「仏花(お葬式の花)」として定着したのは、栽培技術が発展した戦後になってからのことです。【2】日本の言葉の文化では、花びらが散らずに垂れるように枯れていく菊の美しい姿を、風に吹かれる様子に見立てて「菊が舞う」と表現します。【3】自発的に聞く「聴(耳へん)」と、自然に聞こえてくる「聞(門がまえ)」を合わせた「聴聞」は、教えを許されて聞き、信じて聞き入れるという浄土真宗の要の歩みです。【4】親鸞聖人は『教行信証』において、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と記し、仏さまが私を救う理由と確かな働きをそのまま受け入れることが「聞」であると説かれました。【5】菊の花を「縁起が悪い」と決めてかかるような自分の色眼鏡(煩悩)に気づき、そんな私こそが救いの目当てであるとお聞かせいただくことが聴聞の真髄です。次回テーマは「お布施の心とキャッシュレス」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

【王舎城の悲劇】──『観無量寿経』が説く救いと韋提希夫人の姿

【王舎城の悲劇】──『観無量寿経』が説く救いと韋提希夫人の姿

🔶マガダ国の王位をめぐる「王舎城の悲劇」古代インドで強大な勢力を持っていたマガダ国の首都・王舎城(おうしゃじょう)を舞台にした、『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』というお経に説かれている物語です。国王である頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)と韋提希夫人(いだいけぶにん)の間には長らく子供が恵まれませんでした。占い師に相談すると「3年後に山奥に住む仙人が死んで王子として生まれ変わる」と告げられます。しかし、待ちきれなかった王は使いを出して仙人を殺してしまいました。まもなく夫人は身籠もりますが、占い師は「仙人は恨みを残して死んだため、生まれてくる子はきっと両親に害を与えるでしょう」と予言します。恐ろしくなった王は、生まれてきた子を高い塔の上から産み落として殺そうとしましたが、奇跡的に手の小指を折っただけで命を取り留めました。この王子が阿闍世太子(あじゃせたいし)です。🔶提婆達多の暗躍と親子の愛憎一方その頃、お釈迦さまのいとこであり教団の乗っ取りを画策していた提婆達多(だいばだった)が阿闍世太子に接近し、神通力を見せて信頼を得ます。そして「お前は父を殺して新しい王になれ。私はお釈迦さまを殺して新しい仏になる」とそそのかし、ひた隠しにされていた誕生の秘密(親が自分を殺そうとした事実)を暴露してしまいました。真実を知って激怒した阿闍世太子は、父・頻婆娑羅王を牢獄に幽閉して餓死させようとします。悲しんだ母・韋提希夫人は密かに牢獄へ食べ物を運びましたが、これが発覚すると阿闍世太子はさらに激怒し、実の母まで殺そうと剣を抜きました。そこで、月光(がつこう)と耆婆(ぎば)という二人の大臣が「古来、王位を奪うために父を殺した者はいますが、母を殺した者など聞いたことがありません。そのような王にはついて行けません」と厳しく諫めました。阿闍世太子は母を殺すことだけは思いとどまりましたが、父親と同じように深い牢獄へと幽閉してしまいました。🔶韋提希夫人の悲嘆とお釈迦さまの導き牢獄の中で悲嘆に暮れた韋提希夫人は、お釈迦さまに向かって「私にどんな罪があって、このような悪い子を産んでしまったのでしょうか。そもそも、お釈迦さまはどうしてあんな悪人の提婆達多と親戚なのですか」と泣き叫び、怒りをぶつけました。元はと言えば自分たちが我が子を殺そうとした身勝手な過去があるにもかかわらず、そのことは棚に上げて他人を責め立てたのです。しかし、お釈迦さまはそれに対して何も説教することなく、ただ微笑まれました。そして眉間から金色の光を放ち、宇宙に存在する数々の美しい仏の国(浄土)を映し出して見せました。それを見た韋提希夫人は、「私は阿弥陀如来の極楽浄土に生まれたい」と願います。お釈迦さまはそれに応え、お浄土へ至るための様々な修行(観法)を説き、その最終的な結論として「お念仏(南無阿弥陀仏)こそが、どんな者でも救われる最上の教えである」と示されるのです。🔶経典の登場人物は「私の姿」を映す鏡浄土真宗において、この『観無量寿経』の主人公である韋提希夫人の姿は、決して遠い昔の他人事ではありません。我が身の罪をごまかし、都合が悪くなると他人のせいにして泣き叫ぶその浅ましい姿は、まさに煩悩にまみれた「この私(凡夫)」自身のありのままの姿を映し出しています。親鸞聖人は、頻婆娑羅王も韋提希夫人も阿闍世太子も提婆達多も、すべての登場人物は「この私一人をお念仏の教えに出会わせるために、お釈迦さまと共に仮の姿となって現れてくださった仏さま方である」と深く味わわれました。完全無欠な善人にはなれない、自分の中にあるドロドロとした悪やエゴイズムと向き合いながら、そんな私を決して見捨てずにすべてを包み込んでくださる阿弥陀さまの救い(お念仏)をいただいていく。それが「王舎城の悲劇」が私達に教えてくれる最も大切なメッセージなのです。🔶今週のまとめ【1】古代インド・マガダ国の王舎城を舞台に、親子の愛憎と救いを描いた『仏説観無量寿経』の物語を「王舎城の悲劇」と呼びます。【2】親が自分を殺そうとした出生の秘密を知った阿闍世太子は、提婆達多にそそのかされて父・頻婆娑羅王を幽閉し、母・韋提希夫人をも牢獄に閉じ込めました。【3】我が身の罪を棚に上げて他者を責め立てる韋提希夫人に対し、お釈迦さまは黙って数々の浄土を見せ、彼女は阿弥陀如来の極楽浄土へ生まれることを願いました。【4】自己中心的で浅ましい韋提希夫人の姿は、実は私たち自身の醜い「凡夫」の姿そのものを表しており、経典は私自身の心を見つめる鏡となっています。【5】親鸞聖人は、登場するすべての悪人や被害者は、「この私」をお念仏の救いへと導くために現れてくださった尊いご縁(仮の姿)であると深く受け止められました。次回テーマは「浄土真宗と『菊(聴く・聞く)』」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【仏教と悪】──大悪人・提婆達多の生涯と親鸞聖人の受け止め方

【仏教と悪】──大悪人・提婆達多の生涯と親鸞聖人の受け止め方

🔶釈迦のいとこであり優秀な弟子だった提婆達多(だいばだった)仏教の歴史において、「最大の悪役」とも言える人物が提婆達多(だいばだった)です。お釈迦さまのいとこにあたる彼は、お釈迦さまを殺害して教団を乗っ取ろうとした大悪人として知られ、生きながらにして最も苦しい無間地獄(むけんじごく)へ落ちたと伝えられています。しかし、彼は最初から悪人だったわけではありません。出家した当初はお釈迦さまの弟子として極めて真面目に修行に励み、神通力を会得するほど優秀な修行者でした。また、「修行者であるならば、お釈迦さまの教えよりもさらに厳しい修行に徹するべきだ」という強いストイックさを持つ人物でもありました。🔶教団乗っ取りの野心と「王舎城の悲劇」修行を重ねる中で、提婆達多は次第に「自分がお釈迦さまに成り代わって教団を仕切るべきだ」という野心を抱くようになりました。ある時、多くの人々の前で説法をしていたお釈迦さまに対し、「お釈迦さまはご高齢になられたので、私が代わりに教団を率います。安心してご隠居なさってください」と発言しました。しかしお釈迦さまはこれを厳しく退け、面子を潰された提婆達多はお釈迦さまに強い恨みを抱き、教団を奪うことを画策し始めます。まず提婆達多は、当時インドで強大な勢力を持っていたマガダ国の阿闍世(あじゃせ)太子をそそのかし、クーデターを起こさせました。阿闍世太子はお釈迦さまの最大の支援者であった父・頻婆娑羅(びんばしゃら)王を牢獄に幽閉し、餓死させてしまいます。この痛ましい事件は「王舎城(おうしゃじょう)の悲劇」と呼ばれ、浄土真宗で大切にされる『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』というお経の舞台となっています。🔶釈迦の殺害計画と仏教で最も重い「五逆罪」クーデターに成功して王となった阿闍世の後ろ盾を得た提婆達多は、次にお釈迦さまの暗殺を実行に移します。山の上から大きな岩を落として圧死させようとしましたが、岩は外れ、砕けた石の破片がお釈迦さまの足の指に当たって出血させました。仏教において仏さまの体を傷つけて血を流させることを「出仏身血(すいぶっしんけつ)」といい、仏教で最も重いとされる「五逆罪(ごぎゃくざい)」の一つです。(※五逆罪とは、①父を殺すこと、②母を殺すこと、③阿羅漢(あらかん=聖者)を殺すこと、④仏の身から血を流させること、⑤教団を分裂させること、の五つの極重悪を指します。)さらに提婆達多は、那羅吉里(ならぎり/ナーラーギリ)という凶暴な象に酒を飲ませて放ち、お釈迦さまを殺させようとしました。しかし、猛り狂う象も、お釈迦さまの前に近づくとその大いなる慈悲に触れて大人しくなり、膝をついて頭を下げてしまいました。🔶教団の分裂(破和合僧)と無間地獄への転落暗殺に失敗した提婆達多は、今度は教団の分裂(破和合僧)を図ります。彼は、当時の教団のルールよりもはるかに厳しい以下の「五事の戒律(五法)」の制定を強く主張しました。村に入らず、林に住むこと招待を受けず、托鉢(乞食)のみで食を得ること信者からの布の施しを受けず、ボロ布(糞掃衣)をまとうこと屋根のある家には住まず、樹の下に住むこと魚や肉を一切食べないことお釈迦さまは中道(ちゅうどう)を重んじていたため、日常生活の中で実践していくことを無視するようなこの極端な要求を拒否しました。すると提婆達多は、自分の厳格な主張に賛同する500人の弟子を引き連れて教団を離脱してしまいます。しかし直後に、お釈迦さまの高弟である舎利弗(しゃりほつ)と目連(もくれん)が赴いて説得し、500人の弟子たちを連れ戻しました。これを知った提婆達多は激怒のあまり血を吐き、五逆罪のうち三つもの大罪を犯した果てに、生きながら無間地獄へと落ちていったと経典には記されています。🔶親鸞聖人が大悪人を「提婆尊者」と敬った理由ここからが浄土真宗の非常に大切なところです。仏教史に残るこの大悪人・提婆達多に対して、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は著書の中で「提婆尊者(だいばそんじゃ)」と尊称をつけ、深く敬意を払っておられます。お釈迦さまに反逆した悪人を、なぜ親鸞聖人は敬ったのでしょうか。親鸞聖人は、「提婆達多はただの悪人ではなく、煩悩にまみれた『この私』がお念仏の教え(他力本願)に出会うきっかけを作るために、お釈迦さまと共にわざと悪役を演じて現れてくださった権化(仏・菩薩の仮の姿)である」と受け止められました。経典に登場する極悪人の姿は、実は怒りや嫉妬、野心に囚われやすい「私自身のありのままの姿(煩悩具足の凡夫)」を映し出す鏡なのです。自分の中に潜む「悪(鬼)」の心をごまかさずに見つめ、完全無欠な善人には到底なれない私だからこそ、そんな私を決して見捨てずに救い取ってくださる阿弥陀さまの広大な慈悲(お念仏)に出遇っていく。提婆達多という存在は、私たちがその真実に気づくための尊いご縁となってくださった方であると、浄土真宗ではいただくのです。🔶今週のまとめ【1】提婆達多(だいばだった)はお釈迦さまのいとこであり、もとは優秀な弟子でしたが、次第に教団乗っ取りの野心を抱くようになりました。【2】阿闍世(あじゃせ)太子をそそのかして父・頻婆娑羅(びんばしゃら)王を幽閉・餓死させた「王舎城の悲劇」を引き起こし、『観無量寿経』の舞台となる事件の引き金となりました。【3】落石や凶暴な象(那羅吉里)を使ってお釈迦さまの暗殺を企て、仏を傷つける「出仏身血(すいぶっしんけつ)」という五逆罪を犯しました。【4】極端に厳格な「五つの戒律」を主張して教団を分裂(破和合僧)させましたが、弟子を取り戻されて血を吐き、生きながら無間地獄へ落ちたとされています。【5】親鸞聖人は、極悪人である提婆達多を「私が阿弥陀さまの救いに出会うために、悪役を引き受けて現れてくださった尊い方(提婆尊者)」として深く敬われました。次回テーマは「王舎城の悲劇」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【親鸞聖人とお墓】──鴨川に捨てるべしとの仰せと本願寺の原点

【親鸞聖人とお墓】──鴨川に捨てるべしとの仰せと本願寺の原点

🔶「鴨川にいれて魚にあたうべし」──親鸞聖人のお墓に対するお心近年、後継者不足や生活スタイルの変化に伴い「墓じまい」を検討・選択される方が増えています。こうした現代のお墓に関する議論を考える上で、浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)聖人のお墓に対するお姿勢は非常に深い示唆を与えてくれます。親鸞聖人のひ孫にあたる本願寺第3世・覚如(かくにょ)上人が著された『改邪鈔(かいじゃしょう)』には、親鸞聖人の言葉として次のように記されています。「それがし親鸞閉眼(へいがん)せば、鴨川にいれて魚にあたうべし」「閉眼」とは息を引き取ること、すなわち「わたしが死んだなら、ご遺体は鴨川に投げ入れて魚の餌にしなさい」とおっしゃったのです。親鸞聖人ご自身は、自らのご遺体や豪華なお葬式、立派なお墓を建てることには全く執着されませんでした。自らの形骸を残すことよりも、ただひたすらに阿弥陀さまのお救い(お念仏の信心)を信じて生きることこそが最も大切であると示されていたのです。🔶大谷廟堂の建立と本願寺の成立親鸞聖人は弘長2年(1262年)、90歳(数え年)で示寂(じじゃく)され、翌日に京都・鳥辺野(とりべの)の南にある延仁寺(えんにんじ)にて荼毘に付されました。その後、東山大谷の地に質素なお墓が建てられます。親鸞聖人の没後10年(1272年)、末娘である覚信尼(かくしんに)さまが、夫である小野宮善然(おののみやぜんねん)氏の協力を得て吉水の地に土地を求め、親鸞聖人のご遺骨とお給仕のための御影(おすがた)を安置する「大谷廟堂(おおたにびょうどう)」を建立されました。覚信尼さまは、この廟堂を私物化するのではなく、関東の直弟子(ご門弟)や子孫たちが力を合わせて親鸞聖人を顕彰し、お念仏の教えを語り合う「集いの場」として護っていくことを定められました。この大谷廟堂こそが、後に本願寺(浄土真宗本願寺派・真宗大谷派など)へと発展していく原点となったのです。大谷廟堂は寛正6年(1465年)、第8代・蓮如(れんにょ)上人の時代に比叡山の僧徒らによって破壊(寛正の法難)されるまでおよそ200年間守られました。その後、幾多の移転を経て、江戸時代初期の慶長8年(1603年)、第12代・准如(じゅんにょ)上人の時代に徳川家康から与えられた現在の堀川六条の地(京都・西本願寺)へと遷座されました。親鸞聖人ご自身はお墓を求められませんでしたが、聖人を慕う残された人々のお心が、今日の本願寺という教団の礎を築いたのです。🔶浄土真宗における「お墓」の真義と祟りへの捉え方親鸞聖人の足跡からも明らかなように、お墓とは亡くなった人を閉じ込めたり、亡き人のために善根を積んで供養(追善供養)したりするための場所ではありません。亡くなられた方は、阿弥陀さまの導きによってすでにお浄土で仏さまとなられているからです。また、「お墓を移動したり墓じまいをしたりすると祟(たた)りがあるのではないか」と不安に思われる方がいらっしゃいますが、そのような恐れは一切不要です。親鸞聖人の御廟所自体が歴史の中で何度も移動している通り、阿弥陀さまの大いなる慈悲に包まれている私たちが、墓じまいや改葬によって祟られたりバチが当たったりすることは絶対にありません。お墓とは「亡き人を縁として、いま生きている私が自らの命の行方を見つめ、お念仏のみ教えに出会わせていただく大切な場」なのです。🔶時代に合わせたお墓の形と命の継承家族の形や居住地が多様化し、東京や大阪、海外など離れて暮らすことが当たり前となった現代において、従来の代々墓を維持することが困難になるのは自然な流れでもあります。お墓のスタイルが時代とともに変化してきたように、形だけに固執するのではなく、現代を生きる家族にとって最も丁寧にお参りしやすい形態を選択していくことが大切です。形が変わったとしても、ご先祖や亡き人を偲び、命の繋がりと阿弥陀さまの救いに感謝する「ご縁」そのものを絶やさないこと。残された人々が無理なく、心穏やかに集い、命を見つめ直せる場所を守り継ぐことこそが、最も尊いお墓のあり方といえます。🔶今週のまとめ【1】親鸞聖人は覚如上人の著『改邪鈔』に「わが死後は鴨川にいれて魚にあたうべし」と残されている通り、お葬式やお墓に執着せず、阿弥陀さまのお救い(信心)を心に収める重要性を示されました。【2】親鸞聖人の娘・覚信尼さまが建立された「大谷廟堂(お墓)」は、聖人を慕う門弟や子孫が集い教えを歓び合う拠点となり、これが現在の本願寺の原点となりました。【3】大谷廟堂は比叡山による破却などの歴史を経て、慶長8年(1603年)に第12代・准如上人の時代に現在の京都・堀川六条の地へと移転・定着しました。【4】浄土真宗においてお墓は追善供養の場ではなく、お墓の移動や「墓じまい」によって祟りやバチが当たるような観念も一切存在しません。【5】現代の過疎化や核家族化の中で、お墓の形に無理に固執するのではなく、いま生きる私たちが故人を偲び、命の尊さやお念仏に出会える最善の形(お参りしやすい形)を選択することが大切です。次回テーマは「仏教と悪」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【お彼岸】──太陽が導く西方浄土と無限に広がる命のご縁

【お彼岸】──太陽が導く西方浄土と無限に広がる命のご縁

🔶お彼岸の語源「波羅蜜多」と西方浄土への思い秋分の日を迎えるお彼岸は、「祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日」として広く親しまれています。お彼岸という言葉は、古代インドのサンスクリット語「パーラミター(pāramitā/波羅蜜多)」に由来します。「パーラ(彼岸・悟りの世界)」へ「ミター(至る)」という意味であり、波羅蜜多とは「迷いの世界(此岸)から悟りの世界(彼岸=お浄土)へ至る」ことを意味しています。春分・秋分のお彼岸の中日は、太陽が真東から昇って真西へと沈みます。古来より仏教では、何事にも偏らない「中道(ちゅうどう)」の心にかなう日とされ、沈みゆく太陽の向こう側にある阿弥陀さまの「西方極楽浄土」に思いを馳せ、お参りや修行を行う最もふさわしい時期として大切にされてきました。科学的な距離ではなく、私達に推し量ることもできない大いなる慈悲(限りなき光と命)の象徴として、西方浄土とお念仏の教えが説かれているのです。🔶「先祖のパラドックス」が教えてくれる命の奇跡先祖の数を数学的に遡っていくと、非常に興味深い命の事実が見えてきます。両親は2人、祖父母は4人、曾祖父母は8人と、代を遡るごとに先祖の数は $2^n$の倍数で増えていきます。一世代を約20〜30年と仮定すると、10代(約200〜300年前の江戸時代)遡るだけで10代前のご先祖は1,024人となり、それまでの累計は2,046人に達します。さらに20代遡れば、20代前だけで約104万人、累計では約209万人もの先祖が存在することになります。これをそのまま千年も遡れば、理論上の先祖の数は当時の地球の総人口を遥かに超えてしまう「先祖のパラドックス」が生じます。これは実際には血縁同士の結びつき(再帰)があるためですが、言い換えれば「人類はみな、どこかで血の繋がった親戚・仲間である」ということです。そして、この膨大な数のご先祖のうち、たった1人でも欠けていたら「いまの私」は決してこの世に誕生していません。ご先祖を思うお彼岸は、私たちが受けてきた命の奇跡の重みを知る日でもあります。🔶『歎異抄』が説く「世々生々の父母兄弟」と縁起の教え浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の教えを記した『歎異抄(たんにしょう)』第5条には、次のような言葉が残されています。「一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり。」「有情(うじょう)」とは、人間だけでなく命あるすべての生き物を指します。途方もない時間の中で命が巡る(世々生々)中で、いま目の前にいる人だけでなく、空を飛ぶ虫や池を泳ぐ魚でさえも、かつて過去世のどこかで私を育ててくれた親であり、ともに過ごした兄弟姉妹であったかもしれないという教えです。仏教の根底にある「縁起(えんぎ)」とは、「すべてのものは相互に関わり合い、繋がり合って存在する」という真理です。私という存在は、自分ひとりだけで独立して生きているのではなく、無数の命のご縁と繋がりによって生かされているのです。🔶「偲ぶ」の意味と自分自身の命に向き合うお彼岸「偲ぶ(しのぶ)」という漢字は、人偏(イ)に「思」と書きます。お彼岸にお墓参りや法要を通して亡き人を忍ぶことは、単に過去を懐かしむだけではありません。先立った大切な方々の命のご縁を通して、「多くの命の繋がりの中に生かされている私自身の命」に深く思いを馳せ、自分の生き方や命のあり様に向き合うことこそがお彼岸の真の意義です。SNSなどを通じた人間関係が広がる現代社会だからこそ、画面の向こうや目の前にある一つひとつの命の背景に、果てしない繋がりと歴史が存在することに気づかされます。このお彼岸は、お墓にお参りするとともに、自らの命の尊さにそっと感謝を捧げる大切な機会としてお過ごしください。🔶今週のまとめ【1】「お彼岸」はサンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多・到彼岸)」に由来し、太陽が真東から真西に沈む秋分・春分に、西方極楽浄土や阿弥陀さまの慈悲に思いを馳せる行事です。【2】先祖の数は10代遡るだけで2,000人を超え、誰もが途方もない数の命のバトンを受け取っており、誰ひとり欠けても今の私は存在しないという命の奇跡を示しています。【3】親鸞聖人は『歎異抄』にて「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と説かれ、あらゆる生きとし生けるものが過去世からの深いご縁で結ばれていることを示されました。【4】仏教の基本である「縁起」の教えの通り、私たちは決して独りで生きているのではなく、目に見える・見えない無数の繋がり(ご縁)の中で生かされています。【5】「偲ぶ(人偏に思)」という言葉の通り、お彼岸は亡き人を想うと同時に、先達のご縁によって生かされている自分自身の命の尊さに向き合い、感謝を深める大切なご縁です。次回テーマは「親鸞上人とお墓」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【一休宗純】──破戒の風狂僧が求めた真実と蓮如上人との絆

【一休宗純】──破戒の風狂僧が求めた真実と蓮如上人との絆

🔶一休宗純の生涯と「一休」の名の由来アニメや頓知(とんち)のイメージで親しまれている「一休さん」こと一休宗純(いっきゅうそうじゅん)禅師は、室町時代に実在した臨済宗大徳寺派の著名な禅僧です。後小松天皇の落胤(子)と伝えられており、現在も京都府京田辺市の酬恩庵(しゅうおんあん・通称「一休寺」)にある一休禅師の墓所は宮内庁によって管理されています。6歳で京都の安国寺に入門し、幼少期から漢詩などの才能を発揮しました。「一休」という道号は、彼が青年期に詠んだ歌「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨ふらばふれ風ふかば吹け」に由来します。「有漏路」とは煩悩と迷いに満ちた現世、「無漏路」とは雑念のない悟りの世界(あの世)を意味します。「人の生涯とは、現世から悟りの世界へ還るまでのほんの一休みに過ぎない。雨が降るなら降れ、風が吹くなら吹け」という、過酷な修行の中で見出した悟りの境地を表したこの歌から、師の華叟宗曇(かそうそうどん)より「一休」の名を授けられました。🔶腐敗した権力への反発と人間味あふれる風狂の姿当時の仏教界は権力と結びつき、僧侶の位階(紫衣など)が金銭で買収されるなどの腐敗が進んでいました。一休禅師はこうした権威や虚飾を激しく嫌い、立派な衣を拒んでボロボロの黒い布衣(墨染の衣)を身にまとい、街に出て民衆の中に溶け込みながら仏法を説きました。応仁の乱の戦火によって荒廃した大徳寺の再興を天皇から命じられ、81歳の時に大徳寺第47世住持に就任して復興に尽力しました。しかし、権威の象徴である大徳寺に住み着くことはせず、郊外の酬恩庵からお寺へ通い続けました。1481年(文明13年)、88歳で生涯を閉じる際、臨終の言葉として「死にとうない」と口にしたと伝えられています。聖人ぶることなく、死の恐ろしささえ隠さないどこまでも率直で人間臭い姿は、虚飾を廃した真実の探求者そのものでした。🔶蓮如上人との深き交友と宗派を超えた歌の問答一休禅師は、浄土真宗中興の祖である第8代・蓮如(れんにょ)上人と非常に深い親交がありました。「分け登る 麓の道は 多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という道歌に示されるように、禅宗と浄土真宗という宗派の形は異なっても、目指すべき仏法の真理(同じ月)を見つめ合う同志として互いを高く評価し合っていたのです。ある時、一休禅師は『仏説阿弥陀経』に説かれる「十万億土の彼方にあるお浄土」を引いて、次のような挑発的な歌を蓮如上人に送りました。「極楽は 十万億土と 説くならば 足腰立たぬ 婆は行けまじ」(極楽がそんな遥か彼方にあるのなら、足腰の弱ったおばあさんは辿り着けずに地獄へ落ちるしかないではないか)これに対し、蓮如上人は即座にこう応じました。「極楽は 十万億土と 説くなれど 近道すれば 南無のひと声」(どれほど遠くとも、『南無阿弥陀仏』とお念仏を称えれば阿弥陀さまが即座に救ってくださるのだから、すぐに行けるのだ)互いに仏法の神髄を深く理解し合っていたからこそ成り立った、高潔でウィットに富んだやり取りです。🔶親鸞聖人への敬意と「襟巻のあたたかそうな黒坊主」寛正2年(1461年)、本願寺で営まれた浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)聖人の二百回忌法要にも一休禅師は参詣したと伝えられています。その際、黒漆で塗られた親鸞聖人の御木像(防寒用の首巻きをされたお姿)を拝した一休禅師は、次のような歌を詠みました。「襟巻の あたたかそうな 黒坊主 こやつが法は 天下一なり」「黒坊主」「こやつ」という一見ぶっきらぼうで破天荒な口調の中には、形式にとらわれず庶民にただ一人のお念仏の道を切り開いた親鸞聖人の教えに対する、絶大な敬意と賞賛(リスペクト)が込められています。外面の権威や虚飾を剥ぎ取り、人間の真実の姿と仏法の真理を求め続けた一休禅師の足跡は、現代を生きる私たちにとっても大きな感銘を与えてくれます。🔶今週のまとめ【1】とんちで有名な一休宗純禅師は室町時代に実在した臨済宗大徳寺派の僧であり、後小松天皇の落胤と伝えられ、その墓所は今も宮内庁によって管理されています。【2】「一休」の名は、「有漏路(煩悩の現世)より 無漏路(悟りの世界)へ帰る一休み」という道歌に由来し、人生をあの世へ向かう束の間の「一休み」と捉える境地を示しています。【3】名利や権力を嫌ってボロボロの衣で民衆の中に生き、応仁の乱で荒れた大徳寺の再興を果たしつつも、最後は「死にとうない」と率直な人間性を遺して88歳で入滅しました。【4】浄土真宗の蓮如上人とは宗派を超えた深い心の交流があり、「十万億土」をめぐる歌の問答など、互いの教えを理解し合った尊い逸話が残されています。【5】親鸞聖人の二百回忌法要では「襟巻のあたたかそうな黒坊主 こやつが法は天下一なり」と詠み、破天荒な表現の中に親鸞聖人のみ教えへの深い敬意と感銘を表しました。次回テーマは「お彼岸(おひがん)のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【お寺の消滅と現代社会】──無縁化・不活動法人問題と私たちが育むご縁

【お寺の消滅と現代社会】──無縁化・不活動法人問題と私たちが育むご縁

🔶納骨堂の破綻と闇で横行する「宗教法人売買」近年、NHKの『クローズアップ現代』をはじめとする報道において、納骨堂の経営破綻に伴う「遺骨の紛失・所在不明」や、インターネット等を介した「宗教法人の売買(譲渡)」という不条理な問題が大きく取り上げられ、社会的な注目を集めています。墓地や納骨堂の運営許可は、原則として「自治体」または「宗教法人」にのみ与えられます。この仕組みを悪用し、営利目的の不動産業者などが過疎化や少子高齢化によって無人化した「不活動宗教法人(休眠状態の寺院)」を買い取り、名義を利用して納骨堂ビジネスに参入するケースが後を絶ちません。こうした売買は法解釈の隙間を突いた脱法行為であり、事業が破綻して撤退した際、預けられていた大切な遺骨が行方不明になるなど、人間の尊厳を揺るがす重大な事態を引き起こしています。文化庁もこの問題を重く受け止め、注意喚起を行っています。🔶全国に広がる住職不在(無住)寺院と後継者不足この背景には、全国の地方や農村部で急速に進行する寺院の過疎化と後継者不足が存在します。全国に約7万7,000存在する寺院のうち、既に約1万7,000寺(全体の2割以上)が住職のいない「無住寺院(兼務寺院などを含む)」となっており、文化庁の調査でも5,019の不活動宗教法人が確認されています。この現実は浄土真宗においても他人事ではありません。浄土真宗本願寺派の調査によると、次期住職(後継者)が明確に決まっている寺院は全体のわずか44%にとどまり、半数以上の寺院で将来の継承が不透明な状況に置かれています。売買の標的となりやすいのは、特定の宗派に属さない「単立宗教法人」が中心ですが、宗派に所属する寺院であっても過疎化と後継者難という課題は共通して押し寄せています。🔶信頼関係に基づくお寺の運営と社会貢献お寺の維持や僧侶の生活は、そのお寺を長年支えてきたご門徒(檀家)の方々の真心の志と協力によって成り立っています。そのため、寺院運営において最も不可欠なのは、ご門徒とお寺・僧侶との間の強い「信頼関係」です。特に財務面での透明性を保ち、不信感を与えない健全な会計運営を行うことが求められます。また、単にお経をあげるだけでなく、地域でのボランティアや社会貢献活動に積極的に携わり、「地域社会や人々に寄り添い、共に生きる存在」としてお寺の価値と存在意義を証明し続けていくことが重要です。🔶お彼岸のお参りとお寺との繋がりお寺の消滅や納骨堂の問題は、決して僧侶や宗教界だけの問題ではなく、ご先祖の遺骨を預け、お参りを重ねてきた私たち一人ひとりの生き方に関わる切実な問題です。「うちのお寺は大丈夫だろうか」と遠くから心配するだけではなく、秋のお彼岸などの節目を機に、自らお寺へと足を運ぶことが一番の解決策となります。本堂にあがってお参りをし、住職とお寺の現状やこれからのあり方について言葉を交わすこと。その一人ひとりの「参拝」と「関わり」こそが、無縁化社会の中で尊いご縁を護り、お寺を未来へと受け継いでいく確かな歩みとなります。🔶今週のまとめ【1】都会の納骨堂の経営破綻による遺骨紛失や、インターネットを通じた「宗教法人売買」という脱法行為が問題視されており、文化庁も注意を呼びかけています。【2】全国約7万7,000寺のうち約1万7,000寺(2割以上)が住職不在であり、不活動宗教法人が5,019存在するなど、地方の過疎化と後継者難が深刻化しています。【3】浄土真宗本願寺派でも次期住職が決まっている寺院は44%にとどまり、特定の宗派に属さない「単立宗教法人」だけでなく、すべての寺院にとって後継者育成が緊急の課題です。【4】お寺の存続には、ご門徒との確かな信頼関係、透明性のある会計運営、そして地域社会に根ざした社会貢献活動への取り組みが欠かせません。【5】お寺の消滅を防ぎ大切な遺骨やご縁を守るためには、お彼岸などの機会にお寺へ足を運び、参拝と対話を通じて関わりを深く保つことが大切です。次回テーマは「一休さんのお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

【仏教と鬼】──恐れの対象から自らの姿を照らす鏡へ

【仏教と鬼】──恐れの対象から自らの姿を照らす鏡へ

🔶鬼のルーツとインド・中国から日本への変遷現代で「鬼」というと、人を襲う化け物や、地獄で亡者を痛めつける恐ろしい存在をイメージする人が多いかもしれません。しかし、古代インドの初期仏教における地獄(サンスクリット語で「ニラヤ」)には、もともと「鬼」という概念はありませんでした。地獄・餓鬼・畜生の「三悪道(さんあくどう)」において、地獄で亡者を懲らしめる役目は「獄卒(ごくそつ)」と呼ばれていました。これが中国に伝わった際、漢訳によって「獄卒鬼」や「鬼」と表現されるようになります。また、鬼が「虎の皮のパンツ」を履いて角を生やしているイメージは、ヒンドゥー教のシヴァ神(退治した虎の皮を腰に巻く姿)やヤクシャ(夜叉)などのイメージが混ざり合ったものです。さらに中国では死者の霊を「鬼(キ)」と呼び、人が亡くなることを「鬼籍(きせき)に入る」と表現する文化も生まれました。日本に伝わると、目に見えない疫病や災厄(おに=隠・おん)が恐ろしい容貌として可視化され、今日の鬼のイメージが定着していったのです。🔶親鸞聖人が説く鬼神への恐れからの解放浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中で、「鬼」や「鬼神(きじん)」という言葉を用いておられます。当時の人々は、目に見えない病気や災難を鬼や邪神の祟り(たたり)として深く恐れ、それらを鎮めるための祈祷や迷信に捉われていました。それに対し親鸞聖人は、「そうした目に見えないものや鬼神を恐れて祀ったり、おもねったり(鬼神仕え)する必要は全くない」と強く示されました。阿弥陀さまの「絶対にあなたを救う」という大いなる本願を信じ、お念仏を称えて生きる者は、どのような鬼神や災厄からも護られているから大丈夫であると解き放たれたのです。外なる恐怖に脅かされていた当時の人々にとって、この教えは心の底から救いとなるものでした。🔶妙好人・浅原才市にみる「わが心の中の鬼」浄土真宗でお念仏の喜びの中に生きた人々を「妙好人(みょうこうにん)」と呼びますが、石見国(現在の島根県大田市温泉津町)の妙好人・浅原才市(あさはらさいち)さんにまつわる味わい深いエピソードがあります。ある時、画家が才市さんの肖像画を描いて見せたところ、とてもよく似ていたのにもかかわらず、才市さんは「これはわしじゃない」と怒り出しました。そして「わしは鬼じゃ。頭に角を二本書いてくれ」と画家に頼み込んだのです。画家が言われた通り頭に角を描き加えると、才市さんは「これこそ真実のわしの姿じゃ」と大変喜び、深く感謝したといいます。これは「私の中には、他人を羨み、妬み、腹を立てる自尊心や煩悩(鬼)が渦巻いている」という、自らの醜い姿を鋭く見つめた言葉でした。才市さんは、自らの内に棲む鬼の姿(煩悩具足の凡夫)を自覚したからこそ、そんな浅ましい自分をも決して見捨てずに包み込んでくださる阿弥陀さまの慈悲のありがたさを誰よりも深くかみしめていたのです。🔶外の鬼を恐れるのではなく内なる鬼を見つめる近年、漫画作品などの影響もあり「鬼」という存在への関心が高まっていますが、仏教の視点は「外にいる恐ろしい鬼を退治する」のではなく、「自分自身の心の中に潜む鬼を見つめ直す」ことに向けられています。怒り、嫉妬、貪りといった煩悩に振り回され、ともすれば他者を傷つけてしまう私たちの心こそが「鬼」そのものです。「鬼は外、福は内」と外に退散させるのではなく、実は「鬼は内」にこそ存在するという現実を受け止めること。そして、そんな鬼のような私をそのまま救い取ってくださる阿弥陀さまのみ教えに出会い、自らを照らす鏡として「心の中の鬼」を見つめていく姿勢こそが、現代に生きる私たちに求められている大切な歩みなのです。🔶今週のまとめ【1】現代の鬼のイメージは、インド仏教の「獄卒」やヒンドゥー教のシヴァ神の姿、中国の死者霊信仰、日本の「隠(おん・災厄)」の思想が合流して形成されました。【2】中国で死者の霊を「鬼」と呼んだ文化は、現代日本でも人が亡くなることを意味する「鬼籍に入る」という言葉として残されています。【3】親鸞聖人は『教行信証』において、祟りや鬼神を恐れて祈祷に頼る「鬼神仕え」を否定し、お念仏の者は阿弥陀さまの慈悲によって常に護られていると説かれました。【4】島根の妙好人・浅原才市さんは、自らの肖像画に「角」を描かせ、「自分の中に潜む怒りや妬みの心こそが鬼である」と、自らの凡夫の姿と仏さまの救いを表されました。【5】仏教における鬼とは、外にいる攻撃対象ではなく自分自身の心の中にある煩悩(怒りや嫉妬)であり、その姿を直視することでお念仏のみ教えのありがたさを深める鏡となります。次回テーマは「お寺の消滅と現代社会」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【築地本願寺】──江戸の歴史と現代に開かれた新たな挑戦

【築地本願寺】──江戸の歴史と現代に開かれた新たな挑戦

🔶築地本願寺の歴史と「築地」の地名の由来東京都内には約2,800の寺院が存在しますが、浄土真宗本願寺派は338か寺にとどまります(熊本県の464か寺よりも少ない数です)。その中で中心的な拠点となっているのが、豊かな歴史とユニークな特徴を持つ「築地本願寺(つきじほんがんじ)」です。築地本願寺は江戸時代初期の元和3年(1617年)、浅草近くの横山町に「江戸浅草御坊」として建立されたのが始まりです。しかし、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」によってお堂を焼失。再建にあたり江戸幕府から与えられた土地は、当時八丁堀沖の海上でした。そこで海を埋め立てて地盤を築き、本堂を建てたことから「築地(ついち・つきじ)」という地名が誕生したといわれています。その後、1923年(大正12年)の関東大震災に伴う火災で再び本堂を焼失しますが、1934年(昭和9年)に再建され、現在の壮麗な姿となりました。🔶伊東忠太博士によるシルクロードとインド様式の建築美現在の築地本願寺の建築デザインを手掛けたのは、東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授で建築家の伊東忠太(いとうちゅうた)博士です。建築研究のためにアジア各国を旅した伊東博士と、シルクロード探検(大谷探検隊)で知られる西本願寺第22鏡如(きょうにょ)上人・大谷光瑞(おおたにこうずい)門主との深い親交がきっかけとなり、この唯一無二の建物が作られました。古代インドをはじめとするアジアの仏教建築を模したオリエンタルな外観は、一般的な日本の伝統的寺院とは一線を画し、石造りでステンドグラスや動物の彫刻が施されたエキゾチックな雰囲気を醸し出しています。また、本堂内部は正座を必要としない全席「椅子席」となっており、後方には2,566本のパイプで構成された本格的なパイプオルガンが設置され、コンサートなども開催されています。🔶終活サポートから結婚相談所まで──お寺の敷居を下げる試み築地本願寺では、現代社会における「お寺の敷居の高さ」を解消するため、革新的な取り組みが次々と行われています。その一環として、人生の終末期やエンディングノート作成に寄り添う「終活サポート」をはじめ、なんと境内に「結婚相談所」を開設・運営しています。これは僧侶やご門徒に限らず広く一般の方々も利用可能であり、成婚後はお浄土の阿弥陀さまへ報告・参拝する温かい試みとして親しまれています。🔶「第十八願」にちなんだ18品の朝ごはんと地域交流境内に併設されている人気の「築地本願寺カフェTsumugi(ツムギ)」では、浄土真宗で最も根幹となる「阿弥陀如来の第十八願(すべての生きとし生けるものを救うというお誓い)」になぞらえた「18品の朝ごはん」が提供されています。お粥やお味噌汁とともに18個の小鉢が並ぶ豪華な朝食セットは、お肉や魚介も取り入れたバラエティ豊かなメニューで、観光客や周辺住民の間で大好評を博しています。銀座からも近い立地を活かし、東京の7月のお盆に合わせた大賑わいの盆踊り大会や、仏教以外のさまざまな分野の研究者を招いた勉強会など、多角的な交流の場を創出しています。「時代やニーズに合わせて変化し、人々に寄り添う」築地本願寺の先進的な姿勢は、全国の寺院や地方のお坊さんたちにとっても大きな学びと刺激を与え続けています。🔶今週のまとめ【1】築地本願寺は1617年に浅草近くで創建され、1657年の明暦の大火後に海を埋め立てて土地を「築いた」ことが「築地」という地名の由来となっています。【2】1934年に再建された本堂は建築家・伊東忠太博士と大谷光瑞門主の交流から生まれ、古代インド様式の外観やステンドグラス、パイプオルガンや全席椅子席を備えたエキゾチックな建築です。【3】「お寺の敷居を下げる」取り組みとして、人生の終末期を支える「終活サポート」や、一般の人々も利用できる「結婚相談所」などの先進的な事業を展開しています。【4】境内のカフェでは、阿弥陀如来の「第十八願」にちなんだ「18品の朝ごはん」が話題を呼んでおり、食を通じても教えや存在に親しんでもらう工夫が施されています。【5】東京の7月盆に合わせた盆踊りや各種勉強会など、時代の変化に対応しながら人々とみ教えを繋ぐ築地本願寺の挑戦は、現代のお寺のあり方の模範となっています。次回テーマは「仏教と鬼」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【地域の繋がり】──無縁化社会におけるお寺の役割と「寄り添い」

【地域の繋がり】──無縁化社会におけるお寺の役割と「寄り添い」

🔶無縁化社会の現状と「地縁・血縁」の喪失現代社会では、「無縁化」という深刻な問題が進行しています。マンションやアパートで隣に誰が住んでいるかわからない状況が当たり前となり、日本全体で一人暮らしの割合は約34.6%に上り、65歳以上の高齢者においては5人に1人が単独世帯となっています。さらに2040年には全体の約4割が一人暮らしになるとも予測されています。かつての日本社会を支えていた「家」や「家族」といった地縁・血縁の繋がりが失われ、各個人が孤立して苦しみを抱え込むことで、孤独死や様々な犯罪リスクなどの社会問題が浮き彫りになっています。🔶宗教者の役割と「ネガティブ・ケイパビリティ」こうした無縁化社会の中で、お寺や宗教者の役割が改めて問われています。お坊さんは医師のように医療行為を行ったり、物質的な支援をしたりすることはできません。しかし、「教えを説くこと」、そして「ただ話を聴くこと」が大きな役割となります。心理学や文学の世界には「ネガティブ・ケイパビリティ(Negativecapability)」という言葉があります。これは「答えが出ない、どうしようもない事態に耐える能力」のことです。「なぜ私がこんな病気になったのか」「なぜ大切な人を亡くさなければならなかったのか」といった、科学や医療では答えを出せない不条理な問いに対して、すぐに解決策を提示するのではなく、その悲しみに共に留まり、共感し、寄り添い続けることこそが宗教者の使命なのです。🔶AIにはできない「生身の人間」による傾聴現代の若い世代は、悩み事や相談事をAI(人工知能)に投げかけることが増えています。確かにAIは、膨大なデータから論理的で適切な回答(レスポンス)を瞬時に返してくれるかもしれません。しかし、AIは人間ではありません。生身の人間が同じ空間に座り、声のトーンや表情を感じ取りながら、答えの出ない苦しみにただじっと耳を傾ける「傾聴(けいちょう)」の時間は、決してAIには代替できない温もりを持っています。身近に「自分の話を聴いてくれる人がいる」と知っておくこと自体が、人々の心を軽くする大切な拠り所となります。🔶再評価される月忌参りとお寺のコミュニティお寺が古くから行ってきた伝統的な活動は、現代において「ご縁づくり」の場として再評価されるべき意味を持っています。一つは「月忌参り(がっきまいり)」です。これは毎月の命日にお坊さんが各家庭を訪問してお経をあげる習慣ですが、遠方に住む家族に代わって月に一度安否を確認し、対話をするという見守りの役割も果たしています。もう一つは「お寺という場所のコミュニティ機能」です。月に一度の「ご法座(ごほうざ)」をはじめ、仏教婦人会や子ども会など、人々が集い語り合う場としてのお寺の存在意義は、地域社会の繋がりが希薄化した今だからこそ一層重要になっています。昔のようにお寺の軒先で気軽にお坊さんと話ができるような、敷居の低い開かれた場所であり続けることが求められています。🔶今週のまとめ【1】現代は地縁・血縁が希薄化した「無縁化社会」であり、一人暮らしの増加による孤独死などが深刻な社会問題となっています。【2】宗教者の役割は、医療行為や物質的支援ではなく、人々の悲しみに寄り添い、教えを伝えながらただ話を聴くことにあります。【3】「なぜ私が」という科学で解決できない問いに対し、答えを急がずに共に留まり続ける「ネガティブ・ケイパビリティ」が宗教者には求められます。【4】悩み事をAIに相談する時代にあっても、生身のお坊さんによる「傾聴」は人々の心を軽くする代替不可能な心の拠り所となります。【5】お坊さんが毎月訪問する「月忌参り」や、人々が集う「ご法座」などのお寺の伝統的なコミュニティ機能が、現代の孤立を防ぐご縁づくりの場として再評価されています。次回テーマは「築地本願寺のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【いのちのご縁】──因幡の源左に学ぶお盆と阿弥陀さまの慈悲

【いのちのご縁】──因幡の源左に学ぶお盆と阿弥陀さまの慈悲

🔶因幡の妙好人・足利源左と父親の遺言お盆を迎えるにあたり、浄土真宗で教えを喜び生き抜いた人物「妙好人(みょうこうにん)」として知られる「因幡の源左(いなば の げんざ)」こと、足利源左(あしかがげんざ)さんの生涯とその教えをご紹介します。源左さんは天保13年(1842年)、因幡国(現在の鳥取県)にて農家を営む父・善輔さんと母・おちよさんの子として生まれました。安政6年(1859年)、全国的にコレラが大流行した際、18歳だった源左さんは父・善輔さんを40歳の若さで亡くします。激しい苦しみの中、父は最後の力を振り絞り、「おらが死んだら親様を頼め」と言い残して息を引き取りました。「親様(おやさま)」とは阿弥陀さまのことです。父を失った源左さんは、若くして一家の働き手として厳しい農業と家族の生活を支えることになりました。🔶荷を預ける牛の姿に開けた「阿弥陀さまの救い」父の遺言である「親様を頼むとはどういうことか」という根源的な悩みを抱えた源左さんは、10年以上にわたり各地のお寺や高僧を訪ねて教えを請いましたが、心の霧が晴れることはありませんでした。30歳を過ぎたある早朝、源左さんはいつものように牛を引き連れて草刈りに出かけました。刈り取った草の束のほとんどを牛の背に載せましたが、「すべて背負わせては牛がかわいそうだ」と、1束だけ自ら背負って帰り道を歩んでいました。その途中、激しい腹痛に襲われて動けなくなってしまいます。限界を感じた源左さんが自ら背負っていた最後の草束も牛の背に預けた瞬間、不思議なことに腹痛がすっと治まりました。その時、源左さんの心はパッと開かれました。「自らの力で命の問題や死の不安という重荷を背負う必要はない。『その重荷のすべてをわたしが引き受けるぞ』と常に呼びかけてくださる阿弥陀さまがおられるのだ」と悟ったのです。自らの力に頼るのをやめ、すべてを牛(阿弥陀さま)に任せた時、父の遺言の真意が開かれました。以来、源左さんは生涯を通じてお念仏の歓喜に包まれた人生を歩まれました。🔶追善供養ではなく「私が仏法に出会う」お盆の本質お盆は、亡くなった方々の魂を呼び戻して慰める「追善供養」のための行事と思われがちです。しかし浄土真宗においては、亡くなられた方は阿弥陀さまの導きによってすでに仏となられ、いま生きている私たちのすぐそばに寄り添ってくださっていると受け止めます。したがって、霊魂を遠くから運んでくるといった行事や風習を必要としません。お盆の本質とは、亡き方の命のご縁を通して、「いま生きているこの私」が自らの命のあり様を見つめ直し、阿弥陀さまの救いのみ教え(お念仏)に出会わせていただくことにあります。源左さんが父の死という苦難のご縁から阿弥陀さまの慈悲に出出会われたように、お盆とは生きている私たちが教えに導かれるための尊い機会なのです。🔶お墓参りの心得と熱中症への配慮お墓参りもまた、故人に何かを買い与えたり善根を施したりする場ではなく、先祖や亡き親しい方々のご縁によって私自身が命の尊さに気づかされ、み教えに導かれる場です。ご家族やご親戚が集い、故人の思い出を語り合いながら自分自身の生を見つめ直す時間は、かけがえのない人生の糧となります。なお、夏の時期にお墓参りへ出かけられる際は、熱中症への十分な注意が必要です。墓石や石畳は強烈な太陽光線によって熱を蓄え、周囲の放射熱が非常に高くなります。日陰も少ないため、日中の厳しい暑い時間帯を避け、早朝や夕方の涼しい時間帯にお参りされることをお勧めします。水分や塩分の補給を欠かさず、ご自身の身体と命を大切にお守りいただきながら、心穏やかにお参りください。🔶今週のまとめ【1】鳥取の妙好人・足利源左さんは、18歳の時にコレラで父を亡くし、「おらが死んだら親様(阿弥陀さま)を頼め」という遺言を胸に生きていかれました。【2】自ら背負っていた草束を牛の背に預けて腹痛が治まった経験から、「命の問題や苦難のすべてを引き受けてくださる阿弥陀さま」のお心に気づき、お念仏を喜ぶ生涯を送られました。【3】浄土真宗におけるお盆は、亡き人の供養(追善供養)のためではなく、亡き人の命のご縁を通して「いま生きている私」が阿弥陀さまの救いに出会うための場です。【4】お墓参りも同様に、先祖や故人をきっかけとして自分の命のあり様を見つめ直し、いま生かされている感謝と教えを受け止める大切な機会です。【5】夏場のお墓参りでは墓石の放射熱や日照りに注意し、早朝や夕方の涼しい時間帯を選び、水分補給等の熱中症対策を徹底することが身を守る配慮となります。次回テーマは「地域の繋がり」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

【戦争と平和】──真の平和を問い直す教えと「怨親平等」の智慧

【戦争と平和】──真の平和を問い直す教えと「怨親平等」の智慧

🔶原爆投下の日と戦時下のお寺が背負った歴史8月6日の広島、8月9日の長崎への原子爆弾投下、そして8月15日の終戦の日を迎えるにあたり、戦争と平和について改めて深く見つめ直します。第二次世界大戦において、日本全体で約310万人もの尊い命が失われました。当時、全国のお寺も「金属回収令(金属類回収令)」によって梵鐘(ぼんしょう)や仏具の拠出を強要されました。浄土真宗本願寺派においても、梵鐘があったお寺のおよそ9割が供出に応じ、その多くは二度と戻ってくることはありませんでした。さらに、教団自体が当時の国家体制の中で戦争に協力・加担してしまったという重い反省の歴史があります。過去のあやまちを深く省み、二度と惨禍を繰り返さないために平和を求め続けることこそ、現代のお寺や仏教徒に課せられた大切な責務です。🔶ガルトゥング博士が説く「三つの暴力」と積極的平和現代社会における「平和」について考える際、平和学の父と呼ばれるノルウェーの学者ヨハン・ガルトゥング(JohanGaltung)博士(2024年没)の提唱した概念が大きな示唆を与えてくれます。博士は、単に国と国との戦争(直接的暴力)がない状態を「消極的平和」と呼び、それだけでは十分ではないと指摘しました。ガルトゥング博士は、社会の暴力性を以下の三つに分類しています。 * 直接的暴力:戦争やテロ、暴行など、心身に直接危害を加える行為。 * 構造的暴力:社会の仕組みや貧困、差別により、本来助かるはずの命が失われたり人権が侵害されたりする状態。 * 文化的暴力:宗教や思想、伝統、道徳などが、直接的暴力や構造的暴力を正当化・合理化してしまうこと。 戦争が終結していても、不当な差別や激しい貧困、不平等が放置されているならば、それは真の平和とは言えません。これら「三つの暴力」を取り除き、環境問題の克服や人権の尊重、飢餓の解消といった「人間の安全保障」が満たされた状態を「積極的平和」と呼びます。こうした意識が社会の当たり前(伝統・慣習)として根付いた状態こそが、私たちが目指すべき「平和文化」なのです。 🔶『ダンマパダ』の言葉と「怨親平等」の心完璧な平和文化の構築は一見すると遠い道のりに思えますが、2500年前に説かれたお釈迦さまの言葉の中に、その根本となる智慧が見出されます。最古の仏典の一つである『ダンマパダ(法句経)』において、お釈迦さまは次のように語られています。「実にこの世においては、怨みに報ゆるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である。」仏教には「怨親平等(おんしんびょうどう)」という教えがあります。これは、自らに害を加える「怨敵(おんてき)」であっても、自らに親しい「親しい者」であっても、そこに境界線を引かず、等しく慈悲の心で向き合う姿勢を指します。「やられたらやり返す」「恨みには恨みで報いる」という連鎖の中にいる限り、争いや戦争が止むことは絶対にありません。ガルトゥング博士が目指した平和の究極も、まさに相手を恨まず、報復の連鎖を自ら断ち切るこの精神に通じています。相手を憎む心を離れ、他者への深い理解と慈悲を持つことこそが、真の平和へと踏み出す第一歩となるのです。🔶今週のまとめ【1】8月6日・9日の原爆投下や終戦の日を前に、戦時中の「金属回収令」による梵鐘の供出や、戦争に加担してしまった教団の反省を振り返り、平和への思いを新たにします。【2】平和学の父ヨハン・ガルトゥング博士は、単に戦争がない状態(消極的平和)だけでなく、社会構造や文化に潜む暴力までを取り除いた「積極的平和」の重要性を提唱しました。【3】貧困や医療格差といった「構造的暴力」や、それを正当化する「文化的暴力」を無くし、人間の安全保障や人権が守られる「平和文化」を築くことが求められています。【4】お釈迦さまは『ダンマパダ(法句経)』において「怨みに報ゆるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない」と説き、報復の連鎖を断つ永遠の真理を示されました。【5】敵味方の隔てを越えて等しく向き合う「怨親平等」の精神こそが、争いが絶えない現代社会において真の平和を実現するための揺るぎない礎となります。次回テーマは「いのちのご縁(お盆のお話)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【仏教とハワイ】──サトウキビ畑から広がるお念仏と支え合いの歴史

【仏教とハワイ】──サトウキビ畑から広がるお念仏と支え合いの歴史

🔶ハワイ移民の歴史と「元年者」から「官約移民」へハワイにおける仏教の歴史は、アメリカに併合される以前のハワイ王国時代、サトウキビ農園の労働力として渡った日本人移民の歴史と深く重なっています。19世紀半ば以降、ハワイにはサトウキビ農園の労働力として、中国、日本、ポルトガル、プエルトリコなど、世界各地から多くの移民が渡るようになりました。1868年(明治元年)、約150人の日本人労働者がハワイへ渡りました。日本からハワイへの最初の組織的な集団移住とされ、明治元年に渡航したことから、彼らは「元年者(がんねんもの)」と呼ばれています。その後、日本とハワイ王国両政府の取り決めに基づき、1885年(明治18年)から政府公認の「官約移民」が始まりました。1886年(明治19年)には、日本人移民の待遇や保護などを定めた日布渡航条約が正式に締結されました。出稼ぎを目的とした移民には、広島、山口、熊本など、西日本の農村出身者が多く含まれていました。さらに1900年以降は、沖縄からも多くの人々がハワイへ移住しました。20世紀初頭には、日本人はハワイのサトウキビ農園労働者の中で、最大規模の集団となりました。🔶開教使の派遣とハワイ本願寺の誕生過酷な労働環境に置かれた移民たちの心のよりどころとして、1889年(明治22年)、浄土真宗本願寺派の僧侶・曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡り、日本人移民を訪ねて布教巡回を行いました。1897年(明治30年)には、西本願寺から里見法爾(さとみ・ほうに)師が開教監督として、今村恵猛(いまむら・えみょう)師が開教使として正式に派遣されました。1899年(明治32年)には、本願寺派としてハワイ最初の本堂となるハワイ本願寺が完成しました。これが、後の本派本願寺ハワイ別院へと発展していきます。当初、移民たちは日々の生活に追われ、仏教の教えに耳を傾ける余裕を持てないことも少なくありませんでした。その後、低賃金や厳しい労働環境を背景に労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通して、農園主側からも本願寺への理解が得られるようになり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。本願寺派の公式資料によると、現在、ハワイには32の寺院があります。また、幼児教育から中学校段階までのホンワンジ・ミッション・スクールと、2003年に開校した仏教系高校パシフィック・ブディスト・アカデミーが運営されています。パシフィック・ブディスト・アカデミーは、西洋諸国で初の仏教系高等学校とされています。🔶太平洋戦争の試練と日系社会のアイデンティティ1941年、真珠湾攻撃を契機に日本とアメリカの戦争が始まると、日本人・日系人社会の指導者と見なされた開教使や僧侶の多くが拘束され、アメリカ本土の抑留所へ送られました。ハワイでは、アメリカ本土西海岸のように日系人住民全体が一律に強制収容されたわけではありません。しかし、僧侶、日本語学校の教師、新聞関係者、地域の指導者などが拘束され、残された人々も厳しい監視や差別の中で生活しました。戦後、お寺の活動は再開され、「サンデースクール」と呼ばれる日曜学校や、ボーイスカウト、野球、バスケットボールのクラブチーム、太鼓グループなどの活動を通じて、日系人コミュニティと地域社会を支える文化的な拠点となっていきました。ハワイのお寺では、夏の「盆ダンス(Bon Dance)」やバザーなどの行事が今も盛んに行われています。寺院によっては、バザーで照り焼きチキンなどの料理を販売し、その収益を寺院の維持や地域活動に役立てています。日本の寺院とはまた異なる、地域に開かれた組織的な運営が行われているのです。戦時中、僧侶や日系社会の指導者の一部が抑留され、残された人々も大きな不安や差別の中で暮らしました。それでも、お寺を中心とした集いと盆踊りなどの文化を守り続けた歴史は、異国の地で生きる人々が、自らのルーツとアイデンティティを保つための大切な心の支えとなりました。🔶マウイ島大火災とラハイナ本願寺への支援2023年8月8日、アメリカ・ハワイ州マウイ島で大規模な山火事が発生し、歴史ある港町ラハイナは壊滅的な被害を受けました。この火災によって、ラハイナ本願寺では、本堂、学校建物、事務所、社会活動用ホール、台所、開教使住宅などが焼失しました。開教使や現地の門信徒、地域の人々も避難を余儀なくされました。復興には長い時間を要しており、現在も息の長い支援が続けられています。同じお念仏の教えに結ばれた仲間として、日本からもハワイへ温かな支援の手を差し伸べ続けることが求められています。現在では、日本にルーツを持たない現地出身の僧侶も数多く誕生しています。また、本願寺派の開教活動は、ハワイだけでなく、アメリカ本土の西海岸を中心とする日系社会にも広がっていきました。言葉や国籍、文化が異なっても、お念仏のみ教えを中心に結ばれた人々のつながりは、グローバル社会における共生の姿を、私たちに示してくれています。🔶今週のまとめ【1】ハワイの仏教は、1868年に渡った「元年者」や、1885年から始まった官約移民など、サトウキビ農園で働いた日本人移民の歴史と深く結びついて発展しました。移民には広島、山口、熊本など西日本の出身者が多く、1900年以降は沖縄からも多くの人々が渡りました。【2】1889年、曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡って布教巡回を行いました。1897年には本願寺から正式な開教監督と開教使が派遣され、1899年にはハワイ本願寺の本堂が完成しました。これが後の本派本願寺ハワイ別院へと発展しました。【3】労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通じて本願寺への理解が広がり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。【4】真珠湾攻撃後には、開教使や日系社会の指導者の一部が拘束・抑留されました。戦後、寺院は活動を再開し、日曜学校、ボーイスカウト、スポーツ、太鼓、盆ダンスなどを通して、日系社会と地域社会を支える拠点となりました。【5】2023年8月のマウイ島山火事では、ラハイナ本願寺の本堂やホール、開教使住宅などが焼失しました。復興には長い時間を要しており、ハワイと日本の門信徒や関係者による継続的な支援が行われています。次回のテーマは「戦争と平和」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

【心に涼風を】──蝉の声に映る命の無常と今を精一杯生きる教え

【心に涼風を】──蝉の声に映る命の無常と今を精一杯生きる教え

🔶二十四節気「大暑」と土用の丑の日の由来一年の中で最も暑さが厳しくなる二十四節気の「大暑(たいしょ)」を迎え、厳しい酷暑が続いています。この時期の風物詩といえば「土用の丑の日」の鰻(うなぎ)ですが、夏場に鰻を食べる風習は江戸時代、夏場に売上が落ちて困っていた鰻屋から相談を受けた蘭学者の平賀源内が、「本日土用丑の日」という貼り紙を店先に掲げさせたところ大繁盛したことが始まりとされています。こうした猛暑の中、仏嚴寺の前住職である祖父・高千穂将史(まさふみ)が昭和60年(1985年)頃に遺したコラム「心に涼風を」に触れながら、現代を生きる私たちの命のあり方について見つめ直します。🔶松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」の二つの味わいかつてお寺で配布していたコラムには、境内で激しく鳴く蝉(セミ)と、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句「やがて死ぬ 景色は見えず蝉の声」を通じた二つの深い味わいが記されていました。一つ目は「わずか1週間の儚い命であることも知らず、のんきに浮かれてただワシワシと鳴いていることよ」という自省の味わいです。将史元住職は「自分も時折、『お前さん、もう長い命ではないのだよ。何を呆けて暮らしているのか』と自分自身に問いかけている」と述べています。二つ目は「やがて死にゆく運命であることを知りながらも、蝉は今の今を力の限り命を歌い上げていることよ」という感銘の味わいです。儚い命だからこそ、投げやりになるのではなく「今日の1日を精一杯生きねばならない」という教えを、蝉の声が私たちに届けてくれています。🔶時代が変わっても変わらない「命の無常」昭和60年当時、境内に蝉取りに来る子どもたちの姿が減り、室内遊びや塾へと環境が変化していった様子がコラムに綴られていました。現代ではさらに環境が変わり、気温が35度を超える猛暑日には蝉すら鳴かなくなるような酷暑の時代を迎えています。しかし、2500年前のお釈迦さまの時代から、昭和、そして現代に至るまで、科学技術が発達し平均寿命が延びたとしても、決して変わらない事実があります。それは「人間は必ず命を終えていく(無常)」という命のあり様です。どれほど時代や環境が移り変わろうとも、私たちは限られた時間の中で生かされているという根本的な真理は変わりません。🔶お寺という「心のオアシス」と地域のハブかつてのお寺は、境内が子どもたちの格好の遊び場であり、地域の人々が自然と集うコミュニティの拠点(ハブ)でした。江戸時代には、お寺の軒先でお坊さんとお侍さんが酒を酌み交わして語り合うような、極めて身近で開かれた空間でした。「お寺は敷居が高い」と感じられがちな現代ですが、決してそんなことはありません。都市の喧騒や猛暑の中でふと立ち寄り、冷たいお茶を飲みながら心を静め、句やみ教えに触れて「心の涼風」を感じていただくような、地域のオアシスとして気軽にお参りしていただくことが本来のお寺の姿です。🔶今週のまとめ【1】二十四節気の「大暑」や「土用の丑の日」など夏の節目を迎える中、前住職のコラムを通じて「心に涼風」を届ける命の対話が展開されました。【2】松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず蝉の声」には、自らの無常を忘れて呆けて生きる自己への戒めと、有限の命を精一杯生き抜く姿という二つの味わいがあります。【3】昭和60年頃と現代では子どもたちの過ごし方や気候環境が変化しましたが、「人は必ず命を終えていく」という仏教の説く無常の理(ことわり)は変わりません。【4】昔のお寺は子どもたちの遊び場や地域の交流拠点であり、現代においても敷居が高い場所ではなく、誰でも気軽に心を調えられる空間です。【5】慌ただしい日々の中で一息つき、自分自身の命の限界と向き合いながら「今日の1日を精一杯生きる」ことの大切さを学ぶことが、心に確かな涼風をもたらします。次回テーマは「仏教とハワイ」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【お盆の意味】──盂蘭盆会の由来と世界に広がるお念仏のご縁

【お盆の意味】──盂蘭盆会の由来と世界に広がるお念仏のご縁

🔶盂蘭盆会の由来と目連尊者の物語お盆の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、その語源は古代インドのサンスクリット語である「ウランバーナー(ullambana)」に由来します。これには「逆さ吊りの苦しみ」という意味があります。その由来は『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』というお経に説かれています。お釈迦さまの弟子で、優れた神通力を持つことから「神通第一(じんづうだいいち)」と称された目連尊者(もくれんそんじゃ)が、あるとき「亡くなった母は今どこでどうしているだろうか」と自らの神通力で霊界を見渡しました。すると、母親は貪りの罪によって餓鬼道(がきどう)という苦しみの世界に落ちており、まさに逆さ吊りのような凄惨な苦しみを受けていたのです。悲しんだ目連尊者が「どうすれば母を救えますか」とお釈迦さまに乞うたところ、「夏の厳しい修行(安居)が終わる7月15日に、多くの修行僧たちに食べ物や飲み物をお供えして深く供養しなさい。その功徳によって母親は救われるであろう」と教えられました。目連尊者がその通りにお勤めをすると、母親は無事に餓鬼道の苦しみから解き放たれたといいます。これが、私たちが今日営んでいるお盆の始まりです。🔶日本のお盆の歴史と浄土真宗の受け止め方日本におけるお盆の歴史は非常に古く、『日本書紀』には推古天皇14年(606年)にお盆の行事を行ったという記述が残されています。今からおよそ1400年以上も昔から、日本では亡き人を偲び、命のつながりを確かめる大切な行事として全国へ広がっていきました。なお、一般的にはお盆の飾り付けとして「きゅうりの馬」や「ナスの牛」(精霊馬・精霊牛)を用意する風習がありますが、浄土真宗においてはこれらを用いません。これらは日本古来の民間信仰や民俗風習が仏教行事と結びついて生まれたものです。浄土真宗では、亡くなられた方は阿弥陀さまの導きによって即座にお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるため、迷って現世に戻ってくることもなければ、移動のための乗り物を必要とすることもない、という教えの真髄に基づいているためです。🔶「7月盆」と「8月盆」──明治の改暦に隠された財政事情現在、日本には7月にお盆を行う地域(新暦盆)と、8月に行う地域(月遅れ盆・旧盆)が混在していますが、これには明治時代の「改暦」という近代化政策が大きく関係しています。もともとお盆は旧暦の7月15日に行われていましたが、明治5年、明治政府は西洋諸国と暦を合わせるために太陽暦(新暦)の導入を発表しました。これにより、明治5年12月2日の翌日が一気に「明治6年1月1日」となったのです。月の満ち欠けを基準とする旧暦(太陰太陽暦)は1年が約354日であるため、数年に一度「閏月(うるうづき)」が入って1年が13ヶ月になる年がありました。実は、当時の明治政府は極めて深刻な財政難に陥っていました。旧暦のままだと翌年に13ヶ月目が訪れ、官吏や軍人への給料を1ヶ月分多く支払わなければならなくなります。それを避けるために急遽新暦を導入し、1ヶ月分の支給を免れるという財政対策の側面がこの改暦には隠されていたのです。新暦への突然の移行により、本来の7月15日にお盆をしようとすると、農村部では最も忙しい農繁期と重なってしまい、お盆どころではなくなってしまいました。また、昔の農家にとってお盆は、普段なかなか口にできない大切な白米をいただくお祭りのような意味合いもありました。そこで、生活や農業のサイクルに配慮し、1ヶ月季節を遅らせて平穏にお勤めできるようにしたのが、現在の「8月盆(月遅れ盆)」の始まりです。🔶アメリカ日系社会へ渡った盆踊りとアイデンティティお盆の象徴である「盆踊り」は、本来は一遍(いっぺん)上人などが広めた「踊り念仏(おどりねんぶつ)」という別の宗派の文化に由来するため、日本の浄土真宗においては歴史的にあまり馴染みのないものでした。しかし興味深いことに、太平洋を渡ったアメリカやハワイの日系社会において、この盆踊り(BonDance)を文化として定着させ、広く発展させたのは浄土真宗の開拓伝道使たちでした。異国の地へ移住した日系移民の方々にとって、現地の開拓寺院(お寺)はみ教えを聞く場であると同時に、同じルーツを持つ仲間たちが集うかけがえのないコミュニティの拠点でした。ハワイやアメリカ西海岸のお寺では、お盆の時期になると盛大なバザーが開かれ、お寺の裏に据えられた巨大な石窯やグリルで「テリヤキチキン」を豪快に焼いて売り出し、みんなで盆踊りを踊って遠い日本の故郷に想いを馳せました。さらに、第二次世界大戦中に日系人の方々が強制収容所へと隔離された際にも、彼らは収容所の中で欠かさず盆踊りを催していました。過酷な逆境にあっても、自分たちのアイデンティティと文化を守り抜き、お念仏のみ教えを心の拠り所として生き抜くために、お盆と盆踊りは彼らにとって絶対に必要な魂の灯火だったのです。国籍や言語が変わっても、お念仏を喜び、ご縁を大切にする心は世界中で力強く息づいています。🔶命のご縁を喜び、本堂へお参りするお盆時代や場所が変わっても、お盆の本質は変わりません。それは、先にお浄土へ還られた大切な方々の命を尊い「ご縁」として、いま生きているこの私が、阿弥陀さまの救いのみ教え(お念仏)に出会わせていただくということです。お盆の時期にお墓参りへ行かれる際は、お墓の前だけでお参りを済ませるのではないでなく、ぜひお寺の本堂へも足を運び、阿弥陀さまの前でお参りください。故人が遺してくれた尊い結びつきに感謝しながら、本堂の清らかな空間で共にお念仏を称え、いつでも私を見捨てることなく包み込んでくださる阿弥陀さまの大いなる慈悲のぬくもりに、改めて出遇い直す素晴らしいお盆をお過ごしいただきたいと思います。🔶今週のまとめ【1】お盆の正式名称である「盂蘭盆会」は、お釈迦さまの弟子である目連尊者が、餓鬼道で「逆さ吊りの苦しみ(ウランバーナー)」を受けていた実母を救ったという『盂蘭盆経』の物語に由来します。【2】日本のお盆は推古天皇の時代(606年)から続く古い伝統ですが、浄土真宗では、亡き人はすでに浄土で仏となられている(往生即成仏)と受け止めるため、精霊馬(きゅうりの馬やナスの牛)などの飾りは用いません。【3】「7月盆」と「8月盆」の混在は、明治5年の太陽暦(新暦)導入が原因であり、当時の明治政府が閏月による給料の重複支給を防ぐという財政難対策の側面も含まれていました。【4】一遍上人の「踊り念仏」に由来する盆踊りは、アメリカやハワイの日系社会では浄土真宗の伝道によって広く普及し、戦時の強制収容所でもアイデンティティを守る心の支えとして踊り継がれました。【5】お盆は亡き人を縁として今を生きる私たちが心静かにお念仏のみ教えに出会う尊いご縁であり、お墓参りと共にお寺の本堂へもお参りし、阿弥陀さまの救いを喜ぶことが本来の過ごし方です。次回テーマは「心に涼風を」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【法事の意味】──悲しみを癒し、私がみ教えに出会うご縁

【法事の意味】──悲しみを癒し、私がみ教えに出会うご縁

🔶年忌の数え方と儒教・十王信仰に由来する歴史私たちが日常的にお勤めする法事は、正式には「年忌法要(ねんきほうよう)」と呼びます。お葬式やお通夜、四十九日の「満中陰(まんちゅういん)」に始まり、その後は一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と続いていきます。ここで「なぜ一周忌の翌年が三回忌なのか」と疑問に思う方も多いでしょう。これには諸説ありますが、一説には中国の儒教の習慣が元になっているといわれています。儒教の喪服の期間において、亡くなって13ヶ月目を「少祥(しょうしょう)」、25ヶ月目を「大祥(だいしょう)」と呼び、これが日本の一周忌(満1年)と三回忌(数え年で3年=丸2年後)の起源となりました。また、なぜ「3」や「7」のつく年に法事を行うのかという点についても、江戸時代に無著道忠(むちゃくどうちゅう)が編纂した辞書『禅林象器箋(ぜんりんぞうきせん)』などの古書に歴史が記されています。『地蔵菩薩発心因縁十王経(じぞうじゅうおうきょう)』に代表される十王信仰や、中国の故事が日本の伝統文化と融合し、長い歴史を経て現在の年忌のサイクルが定着していきました。🔶悲しみを癒すプロセスと故人の記憶の継承数年ごとに巡ってくる法事のサイクルには、遺された私たちが「悲しみを癒していく大切なプロセス(過程)」としての意味が込められています。身近な人を亡くした直後は深い悲しみに暮れますが、一周忌、三回忌とお勤めを重ねる中で、少しずつ心の痛みが和らいでいきます。そして七回忌や十三回忌ともなると、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんの顔を直接知らない小さなお孫さんが同席することもあります。そうした席で「この家はおじいちゃんが建ててくれたんだよ」「こういう優しい人だったんだよ」と、みんなで思い出話を語り合うことこそが何よりの供養となります。時の経過とともに薄れがちな故人の記憶を家族や友人で共有し、次の世代へと受け継いでいくための、法事は実によくできた尊いサイクルなのです。🔶浄土真宗における法要の四つの意義仏教において法事中にお経をあげることには、大きく分けて四つの大切な意味(意義)があるといわれています。一つ目は「仏徳讃嘆(ぶっとくさんたん)」。仏さまの計り知れないお徳を、声を揃えて褒め称えることです。二つ目は「仏徳領受(ぶっとくりょうじゅ)」。仏さまの尊いみ教えを、自らの心にしっかりと受け入れることです。三つ目は「仏恩報謝(ぶつおんほうしゃ)」。仏さまから注がれている大いなる慈悲に対して、心からの感謝を伝えることです。四つ目は「仏徳奉行(ぶっとくぶぎょう)」。いただいたみ教えを日々の生活の拠り所とし、しっかりと歩んでいくことを誓うことです。この四つの歩みを参拝者全員で共有することが、法事という儀式の本質なのです。🔶追善供養ではなく「私のための法事」ここで最も大切なのは、浄土真宗における法事は「遺された者が、亡き人を迷わないようにあの世へ吊り上げるために行うものではない」という点です。一般的な仏教では、遺族が善い行いをしてその功徳を故人に届ける「追善供養(ついぜんくよ長)」という考え方がありますが、浄土真宗は異なります。亡くなられた方は、阿弥陀さまの導きによってすでに迷うことなくお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるからです。したがって、法事は「これだけ供養してやったからもう安心だろう」と善根を積む場ではなく、他でもない「今を生きるこの私」が、故人を縁としてお念仏のみ教えに出会い、自らの命のあり方を見つめ直すために開かれている場なのです。🔶仏前へのお供え物の心得と「向き」の真実法事やお墓参りの際、仏前や墓石にお酒やタバコをお供えされる方をよく見かけます。「故人が生前に好きだったから」という優しいお気持ちからでしょう。しかし、仏教(特にお浄土の清浄さを重んじる浄土真宗)においては、実はこれらはあまりふさわしくないお供え物とされています。仏前へのお供えの基本は、お香、お灯明(ローソク)、お花、そして仏飯(お仏飯)や果物などの「五聖(五供)」です。故人が欲しがるものをこちらから一方的に送り届けるという「向き」ではなく、仏さまとして完成された清らかな世界に対し、私たちが敬意を持って身構えを調え、み教えに耳を傾けさせていただくという「向き」が大切です。このお供え物の本来の意味を一つ胸に留めておくだけで、法事の合掌の深さは大きく変わるはずです。🔶今週のまとめ【1】法事(年忌法要)の数え方は、満1年目に行う「一周忌」を除き、すべて数え年(三回忌は丸2年後、七回忌は丸6年後)で計算されます。【2】一周忌(少祥)や三回忌(大祥)といった年忌の数字は、中国の儒教の風習や『禅林象器箋』に記される十王信仰などが、長い日本仏教の歴史の中で培われて定着したものです。【3】定期的に巡ってくる年忌法要には、遺族が亡き人を偲びながら悲しみを癒す心理的なプロセスとしての役割があり、故人の思い出を次世代へ語り継ぐ大切な機会となっています。【4】浄土真宗の法事には「仏徳讃嘆」「仏徳領受」「仏恩報謝」「仏徳奉行」の四つの意義があり、故人を追善供養するためではなく、「今生きる私がみ教えに出会うため」に修されます。【5】仏前へのお供えは、故人の嗜好品(お酒やタバコなど)を届けるのではなく、仏さまのお飾りとしてふさわしい五供を調え、私たちが仏さまと向き合わせていただく場であることを心得ることが大切です。次回テーマは「お盆(おぼん)のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

9分

【仏教と七夕】──短冊に託す「人間の願い」と私を案じる「仏の願い」

【仏教と七夕】──短冊に託す「人間の願い」と私を案じる「仏の願い」

🔶棚機津女の神事と中国から伝わった乞巧奠7月7日の「七夕」は、古くは「七夕(しちせき)の節句」と呼ばれ、江戸時代には五節句の一つとして庶民の間にも広く定着した日本の伝統行事です。そのルーツは、日本古来の神事と中国の伝説が融合したものといわれています。元来、日本では「棚機(たなばた)」という織機を用い、選ばれた清らかな女性が水辺の「機屋(はたや)」にこもって神様のための着物を織り、秋の豊作を祈って人々の穢れを祓う「棚機津女(たなばたつめ)」の神事が行われていました。やがて仏教が伝来すると、この行事はお盆(ご先祖さま)を迎えるための準備として、7月7日の夜に行われるようになります。そこに、中国から伝わった織物や芸事の上達を願う「乞巧奠(きこうでん)」の風習と、織姫・彦星の星祭り伝説が結びつき、現在の七夕の形が形作られていきました。🔶夜空に広がる織姫と彦星の星祭り伝説プラネタリウムなどでも親しまれている星祭り伝説では、天の川のほとりで神々の着物を織っていた真面目な娘・織女(しょくじょ/織姫)と、牛を飼う青年・牽牛(けんぎゅう/彦星)が登場します。天空で最も偉い神様である天帝の引き合わせで結婚した二人ですが、仲が良すぎるあまり、次第に仕事を忘れて遊び呆けるようになってしまいました。織物が滞って神々の着物はボロボロになり、牛たちも病気になってしまったことに怒った天帝は、二人を天の川の両岸に引き離してしまいます。しかし、二人があまりにも悲しみに暮れるため、天帝は「真面目に働くならば、年に一度、7月7日の夜だけ会うことを許す」と約束しました。現在、私たちが夜空を見上げる時、こと座の一等星ベガ(織姫)と、わし座の一等星アルタイル(彦星)の間に、美しく横たわる天の川を観察することができます。🔶五色の短冊と笹竹に込められた魔除けの意味七夕といえば、笹の葉に色とりどりの短冊を飾る光景が思い浮かびます。古来、笹竹には神聖な力が宿り、神様が降り立つ依り代(よりしろ)であると考えられていました。短冊に用いられる「五色(ごしき)」の青(緑)・黄・赤・白・黒(紫)は、中国の「陰陽五行説」に由来しており、魔除けの意味が込められています。同時に、これらは仏教の万国共通の旗である「仏旗」の五色にも通じる清らかな色合いです。江戸時代に庶民の間へ広がると、寺子屋で学ぶ子供たちが「習字や手習いが上手になりますように」と短冊に願い事を書くようになり、現代へと続く七夕の風習が完成していきました。🔶「私の願い」と「阿弥陀さまの願い」の逆方向仏教的な視点で七夕を見つめ直すとき、そこには「願い」という深い共通点が見えてきます。私たちは短冊に「字が上手になりますように」「お金がたくさん入りますように」と、自らの欲求や願いを書き込みます。織姫と彦星の願いもまた、「大切な人に会いたい」という自らの切実な想いです。これらはすべて、自分を起点として外側へと向かう「人間の願い」といえます。しかし、仏教、特に浄土真宗で説かれる「願い」は、これとは全く向きが逆になります。それは、阿弥陀如来という仏さまが「この私」を目当てとして、あらゆる苦しみから必ず救い取るために建ててくださった「仏さまの願い(本願)」です。私たちが自らの小さな願いに一喜一憂している時、その足元では、仏さまの大きな願いに包まれ、常に願われながら生かされている。七夕という行事は、短冊に目を向けながらも、同時に「私を案じてくださる大きな存在」に気づかされる尊いご縁でもあるのです。🔶伝統行事を通して振り返る子供の成長と地域の思い出かつて熊本市中央区新町にあった「熊本市子ども文化会館」などの児童館でも、七夕の行事は子供たちの健やかな遊びや学びの場として大切にされてきました。学校給食で出された行事食の「七夕ゼリー」を、懐かしく思い出される方も多いのではないでしょうか。子供たちが一生懸命に短冊に書いた願い事は、親が我が子の心の成長や変化をそっと知るための、温かい道標(みちしるべ)にもなります。忙しい現代社会だからこそ、季節の伝統行事を通じて日々の生活を振り返り、自分自身の姿を省みるとともに、人と人との繋がりや、仏さまとの尊いご縁を改めて味わいたいものです。🔶今週のまとめ【1】7月7日の七夕は、日本古来の「棚機津女」の神事とお盆を迎える風習、そして中国から伝わった「乞巧奠」や星祭り伝説が融合して生まれた伝統行事です。【2】織姫(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)の伝説は、年に一度の再会を励みに真面目に勤めることの大切さを現代に伝えています。【3】神聖な力が宿るとされた笹竹に飾る「五色の短冊」は、陰陽五行説に基づく魔除けの道具であり、江戸時代の寺子屋教育などを通じて広く普及しました。【4】短冊に書く「人間の願い」が自分を起点にしているのに対し、浄土真宗の説く「阿弥陀さまの願い(本願)」は、仏さまから私へと注がれる無条件の慈悲の光です。【5】伝統行事や地域での思い出を通じて自らの姿を省み、自分が多くの命や仏さまに「願われている存在」であることに気づくことが大切です。次回テーマは「法事(ほうじ)の意味」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分

【浄土真宗と聖徳太子(後編)】──親鸞聖人が仰いだ観音の化身

【浄土真宗と聖徳太子(後編)】──親鸞聖人が仰いだ観音の化身

🔶親鸞聖人が「和国の教主」と讃えた聖徳太子先週に引き続き、「浄土真宗と聖徳太子」というテーマでさらに深くお話を伺います。日本仏教の恩人である聖徳太子は、浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)聖人から「和国の教主(わこくのきょうしゅ)」、すなわち「日本におけるお釈迦さま」として深く敬われました。そのお徳を偲び、浄土真宗の寺院の本堂内陣(仏さまが安置されている空間の向かって右側)には、今も聖徳太子の絵像や木像が大切に掲げられています。親鸞聖人の生涯と聖徳太子の間には、聖人自身の歩みを大きく決定づける極めて深い結びつきがありました。🔶『皇太子聖徳奉讃』にみる慈悲の和歌親鸞聖人は、聖徳太子を称える多くの和歌(和讃)を残されており、それらは『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』として現代に伝わっています。その中の一首をご紹介します。「救世観音大菩薩 聖徳皇と顕現し 父のごとくに捨てずして 母のごとくに添うたもう」この歌は、「救世観音(くぜかんのん=観世音菩薩)が聖徳太子としてこの世に姿を現し、まるで実の父母が我が子を慈しむように、私たちを見捨てることなくいつも寄り添ってくださっている」という意味です。仏教において観世音菩薩は阿弥陀さまの慈悲の働きを助け、人々の苦しみを救う仏さまです。日本では古くから「聖徳太子は観音さまの化身である」という太子信仰が盛んでしたが、親鸞聖人もまた、太子の中に無限の慈悲を見出されていました。🔶六角堂での夢告とお念仏への導き親鸞聖人が阿弥陀さまの「お念仏のみ教え」に出会う大きな転機となったのも、実は聖徳太子とのご縁でした。聖人は9歳から20年もの間、比叡山で過酷な修行を重ねられましたが、自らの力で煩悩を断ち切ることができず深く悩まれました。そこで29歳の時、意を決して山を降り、太子にゆかりの深い京都の六角堂へ百日間の参籠(さんろう)に入られます。その95日目の暁、聖徳太子の化身である観音菩薩が夢の中に現れ、「示現(じげん)の文」と呼ばれるお告げを授けられました。その内容は、「自力で煩悩を断ち切ろうと苦しむのではなく、ありのままの自分を救い取ってくださる阿弥陀さまにお任せ(他力念仏)しなさい」という、進むべき道を示すものでした。この夢告をきっかけに、聖人は生涯の師である法然(ほうねん)上人のもとを訪ね、浄土真宗の基盤となるお念仏の道へと歩み出されたのです。🔶絵像や彫像にみる太子の真実の姿お寺に安置されている聖徳太子の姿は、私たちがよく知る旧一万円札の烏帽子姿とは異なります。仏教の世界で広く親しまれているのは、髪を左右でお団子のように結った「角髪(みずら)」姿で、「柄香炉(えごうろ)」という仏具を手にした16歳の頃のお姿(孝養像)です。これは、病の床に伏せった父・用明天皇の平癒を心から祈願し、仏法僧の三宝を大切にされた太子の至純な心を写したものです。また、わずか2歳にして東を向いて合掌し、「南無仏(なむぶつ=仏さまに帰依します)」と唱えられた瞬間の愛らしいお姿(南無仏太子像)など、関西をはじめ全国の古いお寺には多様な太子像が残されています。私たちの仏嚴寺にも、そうした歴史の重みを伝える尊い聖徳太子像が大切に受け継がれています。🔶日本人のDNAに息づく仏教の始まり仏教が日本に伝来した当初、それを国家として受け入れるべきか否かを巡り、物部(もののべ)氏(廃仏派)と蘇我(そが)氏(崇仏派)の間で激しい論争と対立がありました。聖徳太子はその対立を乗り越え、仏教の精神を政治と国づくりの根本に据えることで、日本独自の文化の礎を築かれました。もしこれが権力による力ずくの強制であったなら、1500年もの長い間、仏教が民衆に受け入れられ、受け継がれてくることはなかったでしょう。人々が苦しみから救われる道を第一に考えた太子の精神があったからこそ、仏教は日本人の生活や精神の奥深いところ(DNA)にまで溶け込んでいるのです。飛鳥・奈良・平安と時代を経て発展していく日本仏教のすべての始まりの場所には、いつも聖徳太子の温かいまなざしがありました。🔶今週のまとめ【1】親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主」「日本仏教の父」と仰ぎ、真宗寺院の本堂内陣には今も大切に太子の絵像が掲げられています。【2】聖人による『皇太子聖徳奉讃』の和歌では、聖徳太子を観世音菩薩の化身とし、親のように私たちに付き添う慈悲のお姿として讃えています。【3】比叡山での修行に悩んだ親鸞聖人は、六角堂の参籠中に聖徳太子(観音の化身)からの夢告を受け、法然上人のお念仏のみ教えへと導かれました。【4】太子像には、父の病気平癒を祈る16歳の「孝養像」や、合掌して南無仏と唱える2歳の「南無仏太子像」など、信仰に満ちた姿が伝わっています。【5】仏教伝来の論争を経て、太子がみ教えを政治と国づくりの根本に据えたからこそ、仏教は日本人の生活や心に深く根付くこととなりました。次回テーマは「仏教と七夕(たなばた)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

8分