東京閾値東京閾値

東京閾値

TBSラジオ

「ずっとそこにあった東京に気づく」をコンセプトに、ディレクターが毎週、東京にゆかりのある方、普段余り顧みられない東京の一角に赴いてインタビューを試みるドキュメント番組。20年間、上野公園の階段で似顔絵師をしている男性が語る余りにピンポイントな東京史、東洋一の歓楽街・新宿で生まれ育った玉袋筋太郎さんが語る衝撃の少年時代の思い出などなど、その人の中にしかない「東京」をじっくり伺います。番組作りの参考のため、以下のアンケートにご協力をお願いいたします。https://www.tbs.co.jp/radio/podcast/en.html制作:TBSラジオ

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エピソード

台風前、浅草地下商店街にて #23

台風前、浅草地下商店街にて #23

台風前、浅草地下商店街にて #23

大型台風13号が東京に最接近したその日、松重ディレクターと筆者は「こんな日だからこそ、どんな方がいるのだろう」と息巻いて浅草地下商店街へと向かったのです。誰もいません。本当に、誰も。全休符。ただ錆色の沈黙が広がるばかり。「何で誰もいないんだろうか」など思わず愚問が唇から溢れましたが、答えは今ほど述べた通りでした。台風です。人は、帰るのです。同語反復も良いところです。加えて時刻はまだ夕方。17時を回ったか回らないか。シャッターが下ろされた飲食店の営業時間は18時以降が多いのです。浅草地下商店街に直結の地下鉄へと続く道を人々が帰っていくなか、時間、やること、持て余せるもの全てを持て余して天井を見上げればむき出しのダクトより、水が滴り落ちてきます。いかなる俳人をしても風流を見出せない水滴が、床に溜まっていきます。諦めてはいけません。幸いにも浅草地下商店街入り口に座っていた男性にお話を伺うことができました。男性は普段、浅草、押上周辺を主に拠点とされており、今は台風を避けるため、一時的に地下商店街に座っておられたとのこと。これまでの職歴やご出身、普段のルーティンなど男性は訥々と初対面の我々にお話してくださいました。一点、どうしても気になることがありました。男性は、指輪をはめていらっしゃったのです。薬指に。訊いて、よいのでしょうか。ちらほら、地下商店街のお店のシャッターが開き始めています。天井から床に滴った水を店主の方がモップで拭いております。そろそろ台風の夜が始まろうとしています。振り返れば男性はもう、別の拠点へと向かっておりました。文責:洛田二十日(スタッフ)

28分

28分

《秋葉原ラジオセンター》御年93の店主が営む、菊地無線電機  #25

《秋葉原ラジオセンター》御年93の店主が営む、菊地無線電機  #25

《秋葉原ラジオセンター》御年93の店主が営む、菊地無線電機  #25

秋葉原駅すぐ隣にある「ラジオセンター」。開業は1949年。様々な細かい電子パーツを扱う店舗が犇めき合うこの小さな商業施設の二階にあるのが今回、お邪魔した「菊地無線電機」。店主の菊地さんは昭和4年(1929年)生まれの94歳。先ほどの阿久悠より八つ年上であり、同級生に誰がいるのかといえばオードリー・ヘプバーンです。放送でもあった通り、さらりと「GHQ」や「進駐軍」という単語を繰り出されます。それこそ「区役所の人」くらいの軽さで。歴史の地層が眼前に聳え、崩れ、肩まで埋まります。赤坂に生まれ芸者さんに可愛がられていた幼少時代の話などは溝口健二が撮ってないのがおかしいほど。毎日のように赤坂に通勤している我々からすれば、赤坂は「吉そば」がある町です。あとは「スナック玉ちゃん」でしょうか。間違っても芸者さんがいる町ではないのです。さて戦前から戦後にかけての壮絶なエピソードが語られるなか、徐々に私たちの心に翳りが生じ、広がっていくのがわかります。ある意味では「告白」に近いのですが私たち(少なくとも筆者)は、ラジオ番組の仕事をしていながらもいわゆる電器としての「ラジオ」を所持していないのでした。気づけばradikoで聴くようになって久しく、「菊地無線電機」に陳列されている様々なラジオの部品を見ても、一体何の部品かまるで分からないのでした。世の趨勢に従ったと言えば簡単ですが、それでも呵責はベトついて離れません。「ラジオはね、あんまり聴かないんです」インタビューの終盤に飛び出した菊地さんのこの言葉は、ラジオを持たぬ呵責の中にいた私たちからすれば、福音でした。菊地さんは七十年以上、ラジオの部品を販売していらっしゃいますが、別段ラジオ番組がお好きというわけではなかったのです。なんというか「ラジオ」と「番組」を扱う人間のそれぞれの凹凸が噛み合った気がします。恐らく「ラジオ」はこれからも変わっていくのでしょう。御知らせの通り、今回で『東京閾値』の地上波における放送は一旦終了となります。ご愛聴いただいた方々には感謝を通り越して、なんというかもう、同じ家系図に組み込まれたい、そんな想いでいっぱいです。本当に、本当に、ありがとうございました。さて次の『東京閾値』はどんな「ラジオ」になるのでしょうか。はたまた上野公園の階段下にいたお二人はお元気でしょうか。南蒲田の人々は「えちごや」というラーメン屋を思い出したでしょうか。浅草で髪を切った時の代金は経費になるのでしょうか。東京閾値は、ずっとそこにあります。甚謝:洛田二十日(スタッフ)

29分

29分

上野公園階段、交わらぬ二人《上野》#11

上野公園階段、交わらぬ二人《上野》#11

上野公園階段、交わらぬ二人《上野》#11

これは、ロケ中の話。「いないじゃないですか、どうするんですか」松重ディレクターが早くも半狂乱に陥いり、筆者に詰め寄ってきますが、筆者もまた同じ気持ちのため「いないわけない!そんなはずはない」と、負けずに激昂しては、あたりを探し回ります。なにせ今日は、上野公園階段下にいらっしゃる似顔絵師の方々にお話を伺おうという目論見だったのですが、上野公園階段下に行けどもの、似顔絵師の方がいないのです。かつて芸術家が集ったパリ・モンマルトルになぞらえ「上野モンマルトル」と一部で称されていた方々が、まるでいないのです。当然、このままでは『東京閾値』は成立しません。ただ30分間、上野公園の各所にある「知らない人の銅像」の説明文を読み上げる放送になるのです。(主に、ボードワン博士について。)二人して上野公園を隅から隅まで血眼で歩き周れば、国立西洋美術館にある「考える人」の銅像が目に入り、「上野公園で平日昼間に、思索にふけっている人たちに何を考えていたか聞いてみよう」なんて企画に一瞬傾き始めた折、再び最初の階段に戻ってみれば、ハットに作務衣、丸メガネに白い顎髭。絶妙に芸術家の可能性がある風貌の方が、緑茶ハイを飲みながら、思索にふけっております。もしかしたら、この方、ここに居た似顔絵師の方々について知っているかもしれない、ということで、「恐れ入ります。ここに似顔絵師の方、いらっしゃいませんでした?」「ここに俺は二十年いるけれど、今はもう似顔絵師は一人だねえ」これが、占い師松山さんとの出会いでした。まさかの、定点観測者でした。これは、放送直前の話。「ヤクザって言葉、放送で使えるんでしたっけ?」「これ、どこまで放送に乗せて良いと思います?」といったLINEが筆者のスマホに流れ込みます。松重が、例のごとく半狂乱なのです。追加取材でお会いできた似顔絵師の方の話があまりにもスリリングであり、それでいて占い師、松山さんのお話とも食い違っていたので編集脳が破裂しそうでした。とはいえ、きっとその人の中に、それぞれの真実があるのです。無理に整合性を保つことはありません。あとヤクザが使っていい単語かどうかは分かりません。百年後、二人がいた場所にそれぞれ、一切目を合わさない銅像が立つことを、祈ります。解説文もまた、食い違っていますように。文責:洛田二十日(スタッフ)

29分

29分

玉ノ井親方(元栃東関)と《足立区梅田・西新井》#12

玉ノ井親方(元栃東関)と《足立区梅田・西新井》#12

玉ノ井親方(元栃東関)と《足立区梅田・西新井》#12

玉ノ井部屋に伺う前から、我々の魂胆はもうバレバレでありました。玉ノ井親方には前日の段階でおおよその「質問事項」を送っておりまして、その内容とくれば、オブラートで何重にも包んではありましたが、早い話が「親方、どうか治安が悪かった頃の足立区エピソードを教えてください」に他なりません。もう、剥き出しでした。足立区の犯罪発生数が23区でワースト1位の記録を保持。これを80年代のマスメディアがこぞってこれを面白がりすっかり物騒なイメージが浸透。令和の現在において、犯罪件数は劇的に改善されており、徐々にではありますが足立区は「かつて治安が悪かった区」という認識が広まりつつあります。ということで、当時の足立区の話を聞きたいという浅薄な衝動に身を委ねたのです。玉ノ井親方が足立区にやってきたのは平成2年(1990年)のこと。当時、親方は中学生。まさに足立区が「全盛期」だった時代に、思春期を迎えていたのです。ちょうど相撲に目覚める過渡期でもありました。松重ディレクターが薄氷を踏むかのごとく「治安が良くないイメージがありますが」と切り出せば、親方は「良くないイメージというか、良くなかったです」と意外にも磊落にお答えくださいました。では、どんな具合に治安が悪かったかといえば、親方の話には意表を突かれました。通常、我々が考えるような治安の悪い町といえば、全ての店前にヤンキーが屯し、ちょいとカメラを回せば自然と『クローズ』の実写映画が出来上がる、そんなイメージでした。ところが親方が語る治安の悪さとは、「あんまり人と人とが喋っているという感覚がない」我々の想像を簡単に寄り切る、皮膚感覚の宿った言葉。「(ご近所に)おはようございます、と言っても無視される」住んでいる人々に覇気がなく、どこか全体が暗澹としている。自転車を盗まれるとか、ヤンキーに殴られるとかではなく、「挨拶が返ってこない」これこそが、実際に住んでいた方でないとわからない、「治安」の感覚。「おはようございます」この思いを届けたい、この先ずっと。鈴木雅之のグラサンに当時の玉ノ井親方改、志賀太祐少年の姿が、そっと写り込んだところで、後半へと話は続くのです。文責:洛田二十日(スタッフ)

23分

23分

玉ノ井親方(元栃東関)の《これからの足立区》#13

玉ノ井親方(元栃東関)の《これからの足立区》#13

玉ノ井親方(元栃東関)の《これからの足立区》#13

できることなら、お相撲さんがいる町に住みたいですよね。唐突に不特定多数に同意を求めてしまいましたが、玉ノ井親方の今回のお話を聞いて殊更にその想いを強くしてしまった次第です。玉ノ井親方が現役を引退し、部屋を継いだのが2009年。お弟子さんたちの育成は勿論のこと、西新井の地元の方々との交流を大切にされてこられたことは放送中でもあった通りです。「警察署や消防署とタイアップして色々な行事とかに出てですね」深夜の往来を容貌魁偉なお相撲さんが歩くだけで犯罪率が低下すること請け合い。これは単に屈強な男ゆえの抑止力という意味のみならず、お相撲さんが纏う不可侵性がそうさせるのです。現に野球選手を「お野球さん」、クリケット選手を「おクリケさん」と言わないのに、相撲のプロだけを「お相撲さん」と呼ぶこと自体、神性の証。果たしてお相撲さんの前で誰が自転車を盗もうとするでしょうか、誰がPS5を転売するでしょうか、誰が大統領を暗殺するでしょうか。足立区の治安が劇的に改善されてきた背景に「玉ノ井部屋」の存在が無関係とは思えません。仮に治安が悪い地域にお相撲さんの一団を派遣したとしましょう。さすれば、あっという間に悪の枢軸は砕かれ、平和の塩が撒かれ、誰もが立ち入り可能な聖域が生まれているはずなのです。筆者は『サンクチュアリ-聖域-』を勝手にそういう話だと思い込んでおります。今から、確認します。どうか間違っていませんように。文責:洛田二十日(スタッフ)

25分

25分

五十嵐書店と《早稲田古書店街》#14

五十嵐書店と《早稲田古書店街》#14

五十嵐書店と《早稲田古書店街》#14

まったく十八歳、十九歳の頃なんて古本屋さんに行くしかありません。それは決して稀覯書の蒐集を趣味とする粋人の遊びという訳ではなく、切実なまでに金がないからです。ガムシロップを水で薄めて飲む生活を送るよりほかありません。そんな十八歳たちにとって一冊十円で文庫本を売っているような古書店は「ここだけ資本主義が届いていない」という驚きを齎してくれるものでした。そんな早稲田古書店街の中に於いて「五十嵐書店」だけは異彩を放ち続けております。店構えをご覧になっていただければ分かる通り、コンクリート打ちっ放しの外壁にガラス張りと瀟洒を極めた佇まい。何でしょうか。区営の「表参道っぽさを感じさせる装置」か何かとしか思えないのです。少なくとも表紙の破れた中島らものコラムとかは陳列されていないこと請け合い。従って放送の冒頭、松重ディレクターが「番組作家が激推しの」といった触れ込みでお邪魔した五十嵐書店様ですが現実は寧ろ逆であり、十八、十九歳の切実なまでに古本を欲していた頃は緊張で足早に通り過ぎていたお店なのです。だからこそ「ずっとそこにあった東京に気づく」という番組コンセプトを敷衍、援用してこの度、取材を申し込ませて頂いた次第でありました。実際、五十嵐書店さんこそ早稲田古書店街の中核をなす老舗書店。2代目の発案で以って現在の店構えに建て直したことは放送でもお伝えした通り。そんな五十嵐書店の先代であり創業者である五十嵐智さんが帰り際、「参考までに」と一冊の本を渡してくださいました。本のタイトルは『五十嵐日記古書店の原風景』(笠間書院)。そこには放送には載らなかった五十嵐さんが早稲田に店を構える前。神田神保町の修行時代、つまりは十八、十九歳の頃の前日譚が克明に記されておりました。例えば1953年、昭和28年月8月3日の日記を引用しましょう。「毎日、夜遅くなるので本を読む時間がなく、日記をつけるので精一杯(中略)閉店後、寝床までに時間が少ないのが一番苦しい。(中略)世界は進んでいる。私は停滞している。これでは残されてしまう」この時、五十嵐さんは十八歳。郷里山形より上京し、夜間大学への進学を考えつつも殆ど休みなく働き詰めの生活を送っておりました。冒頭、私は「まったく十八歳、十九歳の頃なんて古本屋さんに行くしかありません。」なんて書きましたが実際のところ、その古本屋さんの主人が十八歳、十九歳だった頃は、そんな時間すらなかったのです。身を粉にしてなお「私は停滞している」と言ってのける五十嵐青年の底なしの向上心を前にすれば、筆者のような人間は完全に停止した綿埃も同じ。突如襲ってきた焦燥感を解消するべく、当時購った中島らもやら町田康やらの本を引っ張り出して今より五十嵐書店に向かいましょうか。きっと買い取ってくださるでしょう。でも、それを買い取ってくれるのは十八歳ではなく、六十年の時を経た、八十八歳となった五十嵐青年。そう、世界は進んでいるのです。五十嵐青年ではなく、筆者が停滞しているのです。停滞しているのなら、せめて、記録を。副読本:『五十嵐日記古書店の原風景』(笠間書院)文責:洛田二十日(スタッフ)

29分

29分

野方文化マーケットと《オンリーワン》#16

野方文化マーケットと《オンリーワン》#16

野方文化マーケットと《オンリーワン》#16

「最寄りのコンビニの店員さんが最近、派手な髪色から黒髪に戻してしまったけど(所属しているに違いない)バンドの方向性が変わったのだろうか?」など不要な憶測をしてしまう人が、誰の中にも一人や二人、いらっしゃるはずです。筆者の場合、野方という町にいました。ちょど中野駅と高円寺駅を底辺に、二等辺三角形を描くような位置にあるのが野方。熱心なハルキストである皆様のことです。「ああ、『海辺のカフカ』で謎の老人、中田さんが住んでいた町ね」とピンときていることでしょう。さてそんな『海辺のカフカ』には一切、描かれなかった場所が今日の舞台です。袋小路に蓋をして、闇市ごと煮詰めたような外観。春樹が書きこぼすのも無理はありません。かりに「大島渚がマイクを持って、襲いかかる野坂昭如たちを打擲しまくる一人称視点ゲーム」があったとすれば、最初のステージに設定されそうな場所です。この前提の時点で既に読み手を突き放していることは重々承知ですが、先を急ぎましょう。そんな野方文化マーケットに於いて尚ひときわ、異彩、というか異音を放ち続けているのが、こちらのお店。2畳ほどの店舗に床から天井まで隙間なく積み上げられた、大量の鞄や衣類や楽器たち。朝から晩まで野方の路地に響き続ける「安いよ、安いよ、なんでも修理やってます」という不穏な電子音声。店の名前は「オンリーワン」。輸入雑貨を取り扱い、萬の修理をしてくれるお店なのですが、その店主こそ、筆者がかつてこの町を引っ越す際に「何者か知りたかった人」に他なりません。筆者が住んでいた2009年頃ですが、店主の方が黒髪から白髪になったくらいで、あとは何もひとつ変わりません。強いて言えば、筆者が学生から取材スタッフになったくらいでしょうか。「すみません。TBSラジオで『東京閾値』という番組のスタッフをしている者なのですが、取材させていただいてもよろしいでしょうか。」いただいた名刺には「黄克誠(コウカセイ)」というお名前が記されております。ご年齢は現在、63歳。肌艶は桃色。「お若いですね」と伝えれば「美味しいもの食べてるからね」と莞爾と笑うのです。都合上、松重ディレクターに取材を交代し「野方を代表する謎の人物」の半生を伺いました。1960年代。カンボジアにおいて極めて裕福な家庭に産まれ育ち(ご本人の言葉を借りれば「ボンボン」)何不自由することなく幼少期を過ごしたコウさんでしたが青年期を迎える頃にカンボジア・ベトナム戦争が激化。富裕層だったコウさんは台湾へと留学(亡命)。その後、台湾での徴兵に際して、知人を頼りに再び日本へと亡命され、もともと手先が器用だったことから電子機器、精密機械の修理方法を独学で身につけ、暫くは原宿を中心にフリーマーケットで生計を立て、2000年代に家賃が安いという理由で野方へとやってこられたのです。この凄絶な人生を、まるで「一回、結婚に失敗したことがある」くらいのテンションで話してくださるのです。聞き手である我々からすれば、途中からコウさんの唇から溢れる言葉の重さに耐えきれなくなり、呆然。延々と流れ続ける「なんでも修理やってます」という電子音声が、鼓膜を超えて深々と、脳に、刺さるばかり。その後、ご家族はどうなったのでしょうか。無事、再会することはできたのでしょうか。「地雷にあたって、死んだ。探しに行ったけど、無理だね。泣いたよ」さらに、続けて、「一人になって、だから、店の名前も、オンリーワン」。文責:洛田二十日

29分

29分

日本一の高級住宅街で「街ブラ」ロケは可能なのか《松濤》 #17

日本一の高級住宅街で「街ブラ」ロケは可能なのか《松濤》 #17

日本一の高級住宅街で「街ブラ」ロケは可能なのか《松濤》 #17

日本を代表する高級住宅街である渋谷区松濤。ここで街ブラロケをやってまいりました。まず「松濤」の「濤」という漢字を書けるでしょうか。筆者は書けません。さんずいの隣、これどうなっているのですか。予算が余ったし勿体無いから画数を増やしたのでしょうか。とはいえ松濤にお住まいの皆様は当然ながら、この漢字を書けるのです。だって、その方々からすれば単なる住所ですから。手紙などの郵便物はもちろん、自遊空間に新規登録するとき、深夜の交番で「駐めていた自転車がありません」とお巡りさんに泣きつく時だって「渋谷区松濤云々」とすらり書くに違いありません。など考えながら渋谷ハチ公前より歩いていれば、急に喧騒が遠のきます。梢が揺れ、葉が擦れ、クロアゲハを嫌がる松重の胴間声だけが夏に吸い込まれていきます。松濤に到着していたのです。一旦、深海魚の話をさせてください。一旦です。深海に生息する彼らは高水圧に耐え得る体構造をしています。だからこそ揚げられてしまうと浮き袋や目玉が飛び出してしまうのです。松濤は深海のようでありました。「家」はありません。どれも「邸」です。圧倒的な塀の高さ。邸宅と邸宅の間にある普通にある大使館。『星の王子さまミュージアム』のような瀟洒ぶり。そして、人の不在。痛い。耳の奥が痛い。息が、苦しい。なぜでしょう。思い切ってダイブした松濤の街。その「お金持ち」ぶりが質量を帯びて我々の肺を押しつぶしてくるのです。深海、ここは資本の深海でした。我々のような「ポイント2倍デー」にしか買い物をしない不埒な連中は、もといた浅瀬へ逃げ込むより他ないのです。もちろん目玉が飛び出さないよう、上を向いて。逃げ込んだのは「鍋島松濤公園」。瑠璃色の水面が輝く池を配し、遠くには水車小屋も見えます。幸いにして我々の目玉も飛び出すことなく安全圏へと避難することが出来ました。一安心です。いや、安心している場合ではありません。そういえば「撮れ高」がゼロです。どうにかせねばと遊具の方面へ向かえば、遊んでいた男子小学生らが、何かに勘づき松重の周りに蝟集。それはもうもみくちゃ。聞くところ、みんなこの辺りに住まう松濤キッズとのこと。どこかホッとしました。例え超高級住宅街に生まれても、マイクを持っている大人を見かければ押し寄せる、男子小学生の習性は共通しているのです。松重、想像以上に子供らに群がられています。写真が掲載できないのが残念ですが、モッシュです。松濤モッシュです。そんなときに松重が「お年玉、みんないくらもらったの?」なんて下世話な質問を子供に投げかけます。「うーんと、だいたい25万くらい」。おいまじか。結局、目玉飛び出して、帰宅。文責:洛田二十日(スタッフ)

28分

28分

中野駅で松重がタクシーに乗って帰るまで #18

中野駅で松重がタクシーに乗って帰るまで #18

中野駅で松重がタクシーに乗って帰るまで #18

先ず会議において持ち寄ったネタを吟味しながら「中野サンプラザ閉館のニュースを入り口に、中野ブロードウェイへ向かうのはいかがか」と提案すれば、松重ディレクターは路傍でふやけた湿布みたいな顔をしたまま、何ひとつピンときてくれないので、「いや、まんだらけのお客さんに話を聞くわけでなく、地下にある商店街にいる方々に話を聞きに行きたいのだ」と説明を継げば、少しばかり眉が動き、さらに「要はサブカルチャーの聖地の側面でなく、そこで生活する人々の話を伺うということで」と続ければ、漸く松重も首肯したわけであり、翌日には中野ブロードウェイの地下商店街に集合し、どの商店の方であればお話を伺えそうか、なんとなくの雰囲気を探りながら「どうにも鮮魚店の皆様はお忙しいそうだ」やら「どう考えても店長だと思った人が店長でなかった」「オクラが安かったので、無意味に買った」など収録を敢行する前に、ロケイメージと前口上などの最終調整を行い、いざ収録をスタートさせてみれば、やはりなかなかどうして営業中のみなさまのお話をじっくり腰据えて伺うことは能わず、取材を断られるたび、松重はべこりと音を立てて凹み、それを鼓舞しながら、ロケを進めんとすれば夕刻を前にして確認したところ、どうにもデータが破損しておりました。ここから先、共有されている音源は筆者もリスナーの皆さんもほぼ同じです。松重の折れた心は一服や二服では元に戻ることなく青木繁『海の幸』のような足取りで中野ブロードウェイを後にし、泥濘に似た沈黙のなか、松重が捨て鉢気味に「帰宅の道中のタクシーの運転手さんに、賭けます」とだけ言い残して去っていった次第です。まさかこの『松重帰宅』がそのまま『東京閾値』に成り得るだなんて、誰が予想できたでしょう。松重も驚いたに違いありません。以上のようなことを考えながら、先ほど買ったオクラを入れたカレーを拵えれば「ああ、オクラ入り、と、お蔵入り、がかかっているな」など思いつき、放送後記に書くか書かないか迷って、書いた。文責:洛田二十日(スタッフ)

29分

29分

23区唯一の自然島に人は住んでいるのか《妙見島》#19

23区唯一の自然島に人は住んでいるのか《妙見島》#19

23区唯一の自然島に人は住んでいるのか《妙見島》#19

「今日は何も為なかった。心は塞ふさがれている。昼間べか舟で「長」と妙見島へ渡り、土筆を摘んだ。柳も折って来た。慰まない。寝よう。」「今日昼「長」をのせて青べか舟で大川を漕いだ。妙見島へ上って枯草の上に仰臥て微風の温かい陽を身に浴びた。」山本周五郎が残した「青べか日記」において、妙見島はこのように登場しております。なお「長」とは今もある吉野屋の四代目主人であった長太郎さんのこと。この日記が書かれたのは昭和三年頃。若かりし山本周五郎が少年と連れ立って、妙見島にべか舟で上陸し、つくしを摘んだり、枯れ草の上に寝転がったり、随分と長閑な時間を過ごしたことがわかります。筆者も松重ディレクターと連れ立って向かいましたが、そこに広がっていたのは「サイバーパンク」な工場地帯。周五郎、話が違うではありませんか。土砂運搬用の大型トラックが道路を往き交い、昼寝などしようものなら轢かれるだけです。「青べか日記」の時代から百年近くが経過し、すっかり「工業島」となった妙見島。ここで働いている方にお話を伺おうというのが今回の『東京閾値』です。何名かの方に簡単にお話を伺ったのですが、共通していたのは「特に妙見島に愛着はない」ということ。いくら二十三区唯一の「自然島」と言われていようが、タモリ倶楽部がやってこようが、そこに勤めている方からすれば「職場」に過ぎません。さて、気のせいでしょうか。午後6時を過ぎて、急激に人の数が少なくなってきています。工場の稼働もなくなり、トラックもどんどん島から出るばかり。嫌な予感がします。そういえば、この妙見島に住んでいる方はいらっしゃるのでしょうか。いないなら、この帰宅ラッシュを逃したら、妙見島は無人島になってしまうのでは。もしそうなったら撮れ高不足です。いよいよ島唯一の老舗ラブホテル「ルナ」の入り口で誰かくるのを待つしかないのでしょうか。島に灯りが消え、希望も消え、宵闇に包まれる中、はるか向こうに赤い火が見えました。人魂でしょうか。いや、タバコです。希望の火です。まだ人が残っていました。でも一体、どうしてこんな時間まで。「会社の寮に、住んでるんですよ」まごうことなき、妙見島で暮らしている島民でした。大きな会社があれば、会社寮があっても不思議ではありません。男性はこれから十分かかけて、浦安へひとり飲みに行かれるとのこと。「青べか日記」のような長閑で楽しげな雰囲気が男性から伝わってきます。護岸と堤防工事ですっかり輪郭が固められた妙見島。地図でみればその形状は驚くほど「べか舟」に似ているのです。副読本:山本周五郎『青べか物語』と『青べか日記』文責:洛田二十日(スタッフ)

29分

29分

中野ブロードウェイ地下で58年間商いを続ける「フナリヤ」 #20

中野ブロードウェイ地下で58年間商いを続ける「フナリヤ」 #20

中野ブロードウェイ地下で58年間商いを続ける「フナリヤ」 #20

「ちょっとインタビューの間、うろちょろしていてください」ディレクターの松重にそう言われたので、構成スタッフの筆者は「うろちょろ」を余儀なくされました。場所はサブカルの聖地、中野ブロードウェイの地下に拡がる商店街。今回、訪れた先は中野ブロードウェイ開業当初から店を構えている珍味、乾物のお店フナリヤさん。そのご主人である坂本さんにお話を伺えることになったのです。諸々の理由を加味した上で「ここは一人で行った方が良い」という判断を松重は下し、同行する筆者に対し冒頭の指示を直前になり与えたのでした。さて、遠くで松重がフナリヤのご主人にインタビューする声を聴きながら、致し方なくこの「放送後記」をすぐ近くのベンチで書き始めます。大の大人は急に言われても理由なく「うろちょろ」できないものです。なにせ仕事で来たのですから。自分を納得させるだけの大義名分が欲しいものです。インタビューが行われている間は、その周囲の様子に関する記録を残すことにしましょう。「じゃあもう六十年近く、フナリヤさんはあるのですか」いつにも増して松重の声が地下商店街によく聞こえます。なぜでしょうか。そもそも、地下商店街が閑散としているのです。思えば、フナリヤさんの周囲の商店もシャッターを下ろしていました。どうやら水曜日は定休日の商店が多いようです。降ろされたシャッター群が、松重の声を反響し、増幅。もともと築地に勤めて入られたご主人の坂本さんが恩人であり、中野ブロードウェイの生みの親でもある実業家にして医学博士でもあった宮田慶三郎氏との運命的な出会いの様子がほぼ「館内放送」レベルで響いております。ベンチの前には「ソフトクリーム」と「うどん」というサービスエリアの良いところだけを煮詰めたような「デイリーチコ」があるのですが、半分だけシャッターが下ろされ「今日、うどん側はお休みです」という紙が貼られ、ベンチの壁側には「アイスクリームを食べないでください」という注意書きが。買ったら最後、食べ歩くしかないのです。これを買えば「うろちょろ」できる言い訳が成立しますが、「うろちょろ代」が経費になるとは到底思えません。詰みです。勝手に。視線を上にずらすと「このベンチはお年寄り専用です。」という注意書きが。迂闊でした。人こそいませんでしたが、原則としてここに居座ることはよくないのです。それ即ち「うろちょろ」しなくてはならないことを意味します。「居場所がないので致し方ない」という大義名分を提げ、堂々と地下商店街をうろちょろしてみれば、結句のところ閑散。中心にある鮮魚店や青果店はお休み。ただ、奥に進めば、占い処、アジア食品店、お茶屋さんなど、実に渋いお店は営業しており、さらに向こうにはこれまた実に渋い乾物屋さんが見えて来ました。若い男が、なんだか店主に、マイクを向けています。というか、松重です。フナリヤさんです。東京閾値です。あっという間に一周してしまいました。「今はね、お店同士の繋がりは、あんまり、ないね」何とも世知辛いお話が聞こえてきます。地下商店街の横の繋がりもお店の入れ替わりとともに弱まっているのです。そして筆者もまた今、誰とも繋がっておりません。何だ、「うろちょろしていろ」とは。無性に寂しくなります。泣きそうです。今泣いたら中年の嗚咽がシャッターで増幅されます。当然、マイクは拾うでしょう。事故です。慌てて二階に駆け上がり、「まんだらけ」で『ウルトラセブン』に登場するペガッサ星人を二体購入。彼らもまた、居場所がない寂しくうろちょろした宇宙人でした。さて、インタビューが終わったと見える松重がこちらに向かって来きます。果たして「ペガッサ代」を経費で落とせるか、どうか。その閾値を探ります。文責:洛田二十日(スタッフ)

29分

29分

日本のソウルバー総本山、「MIRACLE」に行かなくては《赤坂》 #21

日本のソウルバー総本山、「MIRACLE」に行かなくては《赤坂》 #21

日本のソウルバー総本山、「MIRACLE」に行かなくては《赤坂》 #21

「アレサ・フランクリンは?」「ソウル」「スティービー・ワンダーは?」「ソウル」「木梨憲武は?」「曲に依る」「なぎら健壱は?」「たぶん違う。フォーク」「所ジョージは?」「絶対違う」中野ブロードウェイの「フナリヤ」さんの取材が終わった直後。中野サンモール内の喫茶店で比較的音楽に詳しい松重ディレクターに「ソウル」とはどんな音楽を指すのかを、上記のごとく具体例から掴もうとしたのですが、だんだんと松重も混乱し「曲に依る」ばかり言うようになり、所さんだけが入れない悲しき「ソウル・ワールド」が頭のなかに構築されるだけで全く以ってソウルミュージックの輪郭が掴めぬまま、気づけばもう赤坂のソウルバー「MIRACLE(ミラクル)」内の席に座っており、隣では松重が店主である林さんにこの店の来歴についてインタビューを始めているではありませんか。そもそも「ソウルバー」という業態も知りませんでしたし、それが赤坂、TBSから徒歩五分のところにあることすらつゆ知らずでした。一歩踏み入れれば、どうやら筆者だけが知らない、恐らくはソウルミュージックの歴史を彩ってきた名盤ジャケポスターの数々。そして、カウンター横には大きな御遺影。無知な筆者でも流石にわかります。この御遺影だけは特別なものであると。実はミラクルのオーナーであり、ソウルバーという業態のパイオニアでいらっしゃった川畑満男さんが、2023年5月16日に逝去。林さんはこちらのお店を引き継がれたばかり。そうしたなかでも、快く取材を受け入れてくださったのです。一体、先代の川畑さんはどんな方だったのか。林さんに問えば、とにかく「音楽……」と当然のごとく自粛語が飛び出しましたが実際、音楽愛は凄まじく「MIRACLE」のDJ卓裏だけで1万枚以上のレコードが収められ、これだって川畑さんが蒐集したレコードのほんの一部。お手元にはどれだけの数があったのか。想像するに日本で最も「丸」を見た方かもしれません。どうでしょうか。ここまで一切、ソウルミュージックについて触れずに書いてしまいました。しかし思い出すほどに、不思議と「MIRACLE」に再びお邪魔したい気持ちが湧き上がって来ます。これはひとえにお店の雰囲気、そして林さんのお人柄によるもの。「ちょっと興味を持ったら、気軽に寄っていただけら」そうなのです。ここソウルバー「MIRACLE」は紹介制でも会員制でもなんでもありません。本当に、ふらりと立ち寄っていただいて構わない、そんなお店なのです。そしてそれは先代川畑さんが目指したお店のスタイルでありました。ソウル好きだけが集まるお店ではないのです。そんな素敵な場所を開いてくださっている林さんの愛に感謝しつつ、世田谷で待っている所ジョージを、迎えに行かなくてはなりません。文責:洛田二十日(スタッフ)

24分

24分

創業三百三十年余フクシマ質店と《両国》#10

創業三百三十年余フクシマ質店と《両国》#10

創業三百三十年余フクシマ質店と《両国》#10

東京には江戸時代から続く老舗が数多く存在いたします。江戸時代から続くお蕎麦屋さん、鰻屋さん、呉服屋さん、そして今回お話を伺った「フクシマ質店」はなんと元禄2年(1689年)創業。元禄です。確か、「見返り美人」とかが描かれた時代です。いつだって「日本史B」の薫りがする『東京閾値』でございます。例えば江戸時代より続く鰻屋さんであれば、味を守るためにタレを継ぎ足し、継ぎ足しするものでして、先日お世話になった「和竿専門店東作本店」さんも、江戸伝統技術を継承されておられました。入れ替わりが激しい「江戸=東京」だからこそ「変わらない」ことに大きな価値が生まれます。一方、「質店」は色々と変わらなくてはなりません。人々から「質草」を預かり、それを担保にお金を貸し付ける業態自体に変わりはありませんが、その「質草」は常に流動的。時には他人の手に渡ることもあります。間違っても三百年以上、蔵の中にG-SHOCKを保管してはなりませんし、それは寺門ジモン氏の仕事です。質草の種類だって変わります。江戸期は衣類が主だったものでありましたが、今は貴金属類が殆どです。都度、その品物の良し悪しや真贋を見極める審美眼が必要になるわけですが、これだって代々の「伝統技術」があるわけでなく、その代の当主が培ってきたものなのです。今回、お話を聞かせていただいた福島さんは10代目でいらっしゃいますが、そうした意味では10人目の「初代」と言えます。そんな福島さんから溢れた「両国という町は変わらない。本格的な再開発が何もない」という言葉は、私たちの肝臓を殴ります。「再開発」という単語はわかりませんが、だいたい「住民税」くらい嫌われている単語のように思っておりましたが、決して一枚岩ではありませんでした。新たな人流を産むためであれば、変化も必要という声も当然あるのです。それこそが今回浮かび上がった東京閾値。ラジオ番組も同じです。変わりゆくものなのです。ちょうど「質流れ」の期限と同じく、三ヶ月間が「1クール」という一つの区切りなのです。番組を継続するためには、自由に使える製作費を捻出しなくてはなりません。ここは筆者自身を質草としてフクシマ質店さんに預け入れ、そこで得たお金で松重ディレクターに渡して番組を作ってもらい、3ヶ月後に松重が迎えにきてくれることを、蔵の中で震えて待つことにしましょう。松重が来なかった場合、筆者が11代目を継がせて頂きたい所存。文責:洛田二十日(スタッフ)

29分

29分

なぎら健壱と《銀座東》前編#8

なぎら健壱と《銀座東》前編#8

なぎら健壱と《銀座東》前編#8

果たして私たちは、この方が「フォークシンガー」であると知っていたでしょうか。少なくとも松重ディレクターは『タモリ倶楽部』という特異空間でのみ受肉する「おもしろおじさん」のイデアと思い込んでいる節がありました。果たして私たちは、この方のご出身が今の「銀座」と呼ばれる地域であると知っていたでしょうか。少なくとも筆者は、「下町」の権化という認識であったのです。果たして私たちは、この方のお名前のイントネーションが「日比谷線」とは違うと知っていたでしょうか。少なくともご本人は日比谷線「東銀座」の旧木挽町生まれです。なぎら健壱さん。1952年4月16日生まれ。現在、71歳。シラフ。アクセントを「な」に置くところから、物語は始まりました。銀座といえば、海外のハイブランドが曼荼羅を形成する街。そのイメージと普段の「なぎら健壱」のイメージがなかなか符合しません。そんな我々のぼうとした笑みをよそに、さらになぎらさんはここで、「銀座は下町」という恐ろしいパンチラインを鼻先にぶつけてくるのです。パニックです。なぎらさんの「下町イメージ」を打ち消し、「銀座」で御生れになったという事実を受け入れはじめた矢先に、今度は「銀座」=「下町」という不可思議な等式が目の前に差し出されます。しかし、実際にそうなのです。「下町」とは何も「情緒が強い人たちが同人町」「おまけが経済システムに組み込まれている町」ではありません。「山手」側の台地に対して「低地」に位置している町を一般的に「下町」。そうであれば、銀座も下町です。つまり、イメージに違わず、なぎらさんは「下町」の御生れ。変えないといけないのは私たちの「銀座」観です。旧木挽町で生まれ育ったなぎら少年。最初からビール片手だったわけもなく、当時、どの小学生もそうであったように路地裏で「めんこ」などに興じておりました。級友の中には木挽職人さんの家庭もまだいる時代、なぎらさんご自身のお父さんも宝石箱を作る職人さん。間違っても手裏剣を見て「ヴィトンじゃん」というような子ではなかったのです。ところが、絵に描いたような下町っ子であったかといえば、小学生の頃になってはじめて、父の資材から飛び出してきたバッタを見て戦々恐々したり、溝川沿いの灌木に蝟集する「蛾」を「蝶々」だと思い込んでいたり、余りにも余りにも予想していなかった角度から「シティ・ボーイ」が顔を出すのです。この「下町っ子」と「シティ・ボーイ」を同時に引き受けた少年は転校を機に故郷・銀座を離れ、以降、距離を以って眺め続けることになるのですが、アクセントがまたわからなくなってきたので確認してから次週に臨みます。文責:洛田二十日(スタッフ)

26分

26分

なぎら健壱と《銀座東》後編#9

なぎら健壱と《銀座東》後編#9

なぎら健壱と《銀座東》後編#9

①なぎら健壱は銀座生まれである。②なぎら健壱は下町生まれである。③よって銀座は下町である。「なぎら健壱」を間に挟むことで、③のような奇異な結論が導き出されて困惑しておりましたが、さらに④「調べたら本当に銀座は下町だった」という事実にぶつかり困惑はなお加速するばかりです。そもそも「下町」とはどこを指すのでしょうか。感覚派からすれば、まさに「なぎらさんみたいな人がいるところ」なのですが、これでは「なぎら論法」から一歩も外に出られなくなるので、素直に「日本大百科全書」に従いましょう。“1878年(明治11)に区制を敷いた地域で、現在の千代田、中央、港、台東、江東、墨田の各区の低地部をさす。(中略)上記6区に足立・葛飾・江戸川そして北・荒川各区が包含されて、広義にとらえられることもある。”なぎらさんが生まれ育った銀座は中央区なので、下町です。それどころか、港区まで下町と言うからには、六本木も赤坂も含まれるわけです。クラブで腰を突き合わせて踊りながらテキーラを呷る人々や、ガラス張りの向こうで洋楽ヒットチャートを紹介するクリス・ペプラーを眺めながら、「やあ、下町風情があるな」と感じても定義上、誤りではないのです。大変です。クリス・ペプラーに「あなた今、下町にいますよ」と今すぐメールまたはファックスを送りたくなります。一旦、クリス・ペプラーのことを忘れ、次の「なぎら論法」に移りましょう。①なぎら健壱は銀座から新宿へ引っ越した。②なぎら健壱は下町生まれ、下町育ちである。③よって、新宿も下町である。これは、無理があります。いかに「下町の定義」が拡張しようと新宿までも下町となった日には東京全域が下町になりかねないのです。さすがの「なぎら論法」も、これまでかと思えば、やはり成立してしまうのです。なぎらさんが越した先というのは葛飾区の「新宿」。「しんじゅく」ではなく「にいじゅく」と読むのです。やられました。叙述トリックにも程があります。まるで人を煙に巻くような話ですがどれも本当というのが何ともなぎらさんらしいとは思いませんか?クリス・ペプラーさんの下町の思い出も聞かせてください。リクエストは「なぎら健壱」で『葛飾にバッタを見た』。ラジオネーム:洛田二十日(スタッフ)

27分

27分

水曜九時、《銀座コリドー街》で。 #7

水曜九時、《銀座コリドー街》で。 #7

水曜九時、《銀座コリドー街》で。 #7

「あなたにとってコリドー街ってどんな街ですか?」そんなこといきなり訊かれたら、なんと答えるでしょうか。仮に筆者であれば「急に言われても困りますし、そもそもあなた誰ですか怖い怖い怖い」と周章狼狽するのみです。東京都中央区銀座に位置し丁度新橋から有楽町駅間の高架下に連なる飲食店街を称して「コリドー街」。銀座高級店の流れと新橋の廉価居酒屋群の汽水域であり、立ち寄り易くも瀟洒な雰囲気を湛えた構えの店が多く、何と申しましょうか、「ホッピー」の消費量が随分と少なそうな街です。こうした街の雰囲気は自然と男女の出会いの場を醸成、気づけば日本随一の「ナンパスポット」なんて軽佻に称されるようになりました。しかし、とある有識者の話によればコリドー街が賑わうのは金曜21時過ぎがピークであるとのこと。では果たして週の真ん中にコリドー街にいる方はどんな人々なのでしょうか。今回探る閾値はまさにこのあたりにありそうです。マイクに大きく「TBSラジオ」と書かれたステッカーを着け、胸ポケットに「TBSラジオ」の名刺を忍ばせ、「TBSラジオなのですが」と話しかけていく松重を道ゆく人は「お、YouTuberだ」と囃します。厳密には違うのです。ただし、ひとつ言えることは、街に、活気が戻ってきています。「あなたにとってコリドー街ってどんな街ですか?」最初にお話を伺った女性2人組みもコロナ前はよく来ていたとのこと。21時30分頃のインタビューだったのに対し「またこれからちょっとだけ呑み行こうかな」と言っておられたのは象徴的でありました。またキッチンカーでのBAR営業をされていた店長さんはなんと23歳。「とりあえず10億くらい稼ぎたい」と仰っていた居酒屋店員さんは21歳。「お店に用事があったから来た」と仰っていた同僚の女性も20歳前後。そもそもコロナ禍以前は未成年であった方々が今、銀座コリドー街の経済インフラを担っていらっしゃるのだから、時の流れの速さに三半規管が狂いそうです。「あなたにとってコリドー街ってどんな街ですか?」ロケの終盤で、お話を伺えたのはともに30代前半の中間管理職のお二人。何の話をしていたか尋ねれば「愚痴一択」らしく「上からはパワハラを受け、下にはパワハラをしてはいけない状況」なのだとか。これはもう、働き方改革が生んだヘルニアです。楽しくお話しているように見えたので話しかけたつもりが、まさか斯様な状態だったとか。「でも、そんな愚痴を、吸収してくれるのが、コリドー街」それでも最後は、こちらを慮ってくださったのか、まとめてくださいました。これもまた中間管理職のなせる技。お疲れ様でございます。そろりロケも切り上げようと駅に迎えば、なぜか高架下より楽しげなビートが。古い映画・漫画のセリフなどで聞いた「ゴキゲンなナンバー」という単語。今、我々の鼓膜を揺らすこの音楽こそ、まさにそれに違いありません。そこはコリドー街と並走するように高架下に連なる「裏コリドー」。その奥に広がる空間、高架に反響する例の「ゴキゲンなナンバー」に身を委ね、踊っている方々いらっしゃいます。「あなたにとってコリドー街ってどんな街ですか?」「コリドー街は若者の街で、裏コリドーは大人の街だね」大体50代から60代の方々がこうして集っていらっしゃる様子。なるほど、大人の街でした。我々が今までいた「表」のコリドー街には仕事の愚痴を零し合う中間管理職の方々、「裏」には楽しくクラブで踊る方々。これ、裏と表、間違えて着てないか?とおもわずタグの位置を確認してしまいそうになりますが、「コリドー」とはそもそも「回廊」という意味。ぐるり巡って、裏も表も関係ないのです。そんなこと、有識者は言っていませんでしたが。文責:洛田二十日

28分

28分

AI vs《南蒲田》 #6

AI vs《南蒲田》 #6

AI vs《南蒲田》 #6

生活するということは、昔あったラーメン屋の名前を忘れていくことなのかもしれない。少なくとも、南蒲田においては。「村上春樹が大田区に生まれ育った場合」みたいな感慨を胸に、私たち番組スタッフはこの街を後にしたのです。一週間前。「ゴールデンウィーク中、都内で最も人が少ない場所はどこですかね」など例のごとくディレクターの松重が気まぐれに問うてくるので「サラリーマンの聖地、新橋はどうだ」「オフィス街の大手町は」「寧ろ今こそ築地市場に向かうべきだ」などせっせと案を出しているというのに、松重とくれば一瞥もくれぬままスマホをいじった挙句「人工知能チャットボットChatGPTで調べたところ、蒲田南らしいです」など抜かしてきやがります。なら最初から訊くんじゃない、と憤りそうになるも、この時ばかりは納得の方が勝りました。今しがた私が出した案には「サラリーマンの聖地の」「オフィス街の」などすでに確固たるイメージがこびりついておりましたが、「蒲田南」はどうでしょう。「蒲田」の「南」であること以上の情報はなく、ChatGPTからの情報を足しても「住宅街」であることがわかる通り。ここは、無記名の東京に放り出されてみましょう。南蒲田に、到着です。悔しいくらい、ChatGPTの言うとおりでした。路地を一本入った途端「あれ、どくさいスイッチ押したっけ」「あれ、キリコの絵画に迷い込んだっけ」「あれ、体験版『アイ・アム・レジェンド』をプレイ中だっけ」などなど「人がいない喩え」が際限なく湧き出すほどに、人がいないのです。さあ、ここから先は人間の領域です。確かにChatGPTが示したとおり人の気配はありませんが、ここは東京です。人がいない筈がありません。人工知能を、超えなくては。全く予想外の出来事が生じました。そりゃ、人はいます。いますが、通常、こうした街ロケは「インタビューを受けてくれる人」を探すことに苦労するもので、十人にお声掛けして一人答えてくだされば良い方です。それが、どうでしょうか。今回、お声掛けさせて頂いた方は3名。そうです。全ての方が快くお話を聞かせてくださったのです。最初の「えちごや」さんが南蒲田の印象を「悪い人はいない」と仰っておりましたが、どの角度から見てもガラの悪い松重をこうも受け入れて下さるとは。そして、もうひとつ予想外だったこと。半世紀以上にわたり営業されていた、まさに“ずっとそこにあった東京”を地でいく「えちごや」さんを何故か他のお二人が忘れていらっしゃったこと。暮らすことは忘れること、たまに思い出すこと、かもしれません。と、ここまで南蒲田ロケの後記をまとめてみましたが、勘の良い方はお気づきかもしれません。途中まで「蒲田南」だった地名がいつのまにか、「南蒲田」に変わっていることを。そうなのです。最初にChatGPTが示した地名は「蒲田南」。ところが、そんな地名はどこにもないのです。地元の方に聞いても、やはり南蒲田しかないとおっしゃいます。もしかしたら、本当に「人が少ない場所」である「蒲田南」という街が平行世界の東京には、存在しているのかもしれません。そして、そこに「えちごや」さんがあったのではないでしょうか。文責:洛田二十日

29分

29分

江戸和竿専門店「東作」と《稲荷町》#5

江戸和竿専門店「東作」と《稲荷町》#5

江戸和竿専門店「東作」と《稲荷町》#5

台東区の稲荷町駅よりほど近い江戸和竿専門店「東作」。「創業は天明3(1783)年。江戸和竿の遺伝子は、初代、泰地屋東作(たいちやとうさく)の時代から240年を経た現在、7代目、松本耕平さんの手に確かに受け継がれているのです。まるで江戸和竿の美しい継ぎ目のように……」漠然とそんな形で終わる回になるのかと思えば、違いました。松重ディレクターが質問を開始した十分後にはもう「立教大に入った頃に家が倒産しちゃったわけ」と耕平さんは滔々と、昭和三十年から四十年にかけての家業の興隆ぶり、そして破綻、再建に至るまでの経緯をそれはもう愛憎たっぷりに語りだすのです。江戸和竿とは何か。江戸和竿の魅力。職人としてのこだわり。伝統への想い。これらはあくまでも“江戸和竿専門店「東作」7代目”への質問であり、その質問はすでに『金曜たまむすび』内の「TOKYOもん」で終えております。従って私たちが伺うべきはそんな境遇に生まれた“松本耕平さん”が今、話しておきたいことに他なりません。「東作」の歴史は登場人物も多いです。4代目、5代目、6代目、と仰る時もあれば「祖父」「父親」「叔父」と仰る時もあります。得心顔で話を聴いている松重の頭が沸騰していくのが分かりました。いえ、筆者の頭蓋の内もまた耕平さんの話に追いつくために必死でした。途中、無理やり『ジョジョ』で例えて整理しようと試みるも「東方仗助の息子であるジョルノとその弟、徐倫が…」と何もかも間違えた映像が頭に湧くのみです。せっかく伺った話を綺麗な枠組みに押し込む作業を「編集」と呼ぶのは少しおこがましい話です。当然、魅力的な逸話はたくさんあります。当時内閣総理大臣であった黒田清隆がどうにかして「東作」の竿を手に入れようとして蔵前一帯の竹を提供したが、竹の質が竿に合わず、結局作ってもらえなかった、なんて大物関連の逸話は山ほど出てきます。それは大いに記録して然るべき史実なのですが、すでに記録されていることを意味します。実際、このエピソードは手元にある本から引用したのです。やっぱりそれと同じくらい「洗車のバイトをしていたら田村正和の車だった」という耕平さんの話もまた残してみようと思うのです。こればっかりは手元の本に書いてありません。ということで、「これに色々書いてるよ」と快く本を貸してくれた耕平さんに返しにいくまでが今回の東京閾値。副読本:『江戸和竿職人 歴史と技を語る』松本三郎(要返却)文責:洛田二十日

29分

29分

外山惠理と《向島》前編 #3

外山惠理と《向島》前編 #3

外山惠理と《向島》前編 #3

酒を飲む、タバコを吸う、選挙に出馬するなど、世の中には大人になってからでないと出来ないものが多々あり、その中のひとつに「永井荷風を引用する」がある。日本を代表する文豪である。筆者はもう立派な大人なので、臆することなく、早速引用する。“尋常中学を出て専門の学校も卒業した後、或会社に雇われて亜米利加へ行った。そして或日曜日の午後、紐育中央公園のベンチで新聞を読んでいた時、わたくしの顔を見て、立止ると共にわたくしの名を呼んだ紳士があった。誰あろう。幾年か前浅草橋場の岸の桟橋で釣をしていたその人である。少年の頃の回想はその時いかに我々を幸福にしたか知れない。橋場辺の岸から向岸を見ると、帝国大学のペンキに塗られた艇庫ていこが立っていて、毎年堤の花の咲く頃、学生の競漕が行われて、艇庫の上のみならず、そのあたり一帯が競漕を見にくる人で賑かになる。堤の上に名物言問団子を売る店があり、堤の桜の由来を記した高い石碑が立っていたのも、その辺であったと思う。”(永井荷風『向島』より)張り切って、引用しすぎた。しかし、何も闇雲に荷風を持ってきた訳ではないのだ。『東京閾値』の二人目のゲストであるこの方と大いに関係があるのだから。外山惠理。職業、TBSアナウンサー。まるでリボンがついているような、銀の鈴が鳴っているような、そんな素敵な声で、いつだってリスナーの心を弾ませ、ご自身もバランスボールで弾んできた外山さんが、玉さんに続くゲストです。そして、外山さんのご実家こそ墨田区の「向島」であり、今しがた荷風の文で登場した「言問団子」。何たること。さらに今回、ディレクターの松重が隅田公園でインタビューをさせていただいたわけですが、外山さんとくれば開口一番、あたりの様子を見て「ニューヨークのセントラルパークみたいじゃない」と仰るのです。これもまた何たること。実にまあ驚くべきことに、何気なく飛び出してきたこの「ニューヨークのセントラルパーク」という言葉こそ、これまた上記、『向島』内にある「紐育中央公園」に他ならないのです。これはもはや歴史が意思を持って、我々を突き動かしているとしか思えません。さらに驚くべきことに、この後はとくに永井荷風に触れる予定がないのです。また、外山さんが登場してから急に文体が敬語調になっていることに関しては、また別の意思によるものでしょう。何たることでしょう。「自分の話は、なるべくしないですね。聞いて、面白いのかなって」松重が「ご自身の話はあまりされませんよね?」と訊いて、返ってきたのがこの言葉。何を仰っているのでしょう。由緒あるお団子屋さんに生まれ、向島で育ち、現在はTBSラジオに欠かせないアナウンサーに。一体、この間に何が外山さんを外山さん足らしめたのか。寧ろ訊きたいことが、多すぎます。だから、訊きました。松重が。まずは生まれ故郷である向島の思い出、存分に語ってもらいました。何せ、恥ずかしながら、松重も、筆者も、そして(おそらくは)多くの東京以外で生まれ育った方々は今、向島に対し、「外山さんの故郷」という知識しか持ち合わせていないのです。果たしてどんなお話が待ち受けているのでしょうか。三味線の音が聴こえる町が、東京に、ある?“少年の頃の回想はその時いかに我々を幸福にしたか知れない。”(永井荷風『向島』より)荷風おかえり。外山さん、後編も宜しくお願いします。文責:洛田二十日

33分

33分

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