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🔶良寛和尚の辞世に見る諸行無常江戸時代の曹洞宗の僧侶であり、歌人としても知られる良寛(りょうかん)和尚の辞世の句に「散る桜 残る桜も散る桜」という歌があります。今を盛りと咲き誇り、枝に残っている桜も、やがては等しく散っていく。この歌は、仏教の根本的な教えである「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を鮮やかに示しています。私たちは今、精一杯に生きていますが、同時に誰もがいつかは命を終えていく存在であることを、散りゆく桜の姿を通して良寛さんは優しく、しかし厳かに語りかけています。🔶親鸞聖人九歳の決意と「仇桜」の歌浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)聖人は、わずか九歳の春に京都の青蓮院(しょうれんいん)で出家されました。その際、得度(とくど)の儀式の導師を務められた慈円(じえん)和尚が、夜も更けたため「儀式は明日にしましょう」と提案されました。しかし、聖人は「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら)夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」という歌を詠み、今夜のうちの出家を懇願されました。「明日もあると思っているこの心は、嵐が吹けば夜のうちに散ってしまう桜のように儚いものです」という決意は、慈円和尚の心を強く打ち、その夜のうちに儀式が執り行われました。🔶花の終わりを彩る日本語の感性日本語には、花の終わりを表現する独特の言葉が数多く存在します。桜は「散る」、梅は「こぼれる」、椿は「落ちる」、牡丹は「崩れる」といったように、それぞれの花が命を終える姿を繊細に捉えています。これらは単なる自然現象の描写ではなく、命が尽きゆく瞬間にもその個性に合わせた美しい名前を与えようとした、先人たちの深い慈しみの心の表れといえるでしょう。🔶「死」を「往く」と捉える往生の教えでは、人の命の終わりはどう表現されるのでしょうか。「死ぬ」や「終わる」といった言葉がありますが、浄土真宗においては「往(ゆ)く」という言葉を用います。これは「往生(おうじょう)」、すなわち「浄土に往(い)き生まれる」ことを意味します。命が終わればすべてが消えてなくなるのではなく、阿弥陀さまの導きによって仏さまとして新しいステージへと生まれていく。死を「終わり」ではなく、次への「始まり」として捉えるこの教えは、死の恐怖に立ちすくむ私たちに大きな安心を与えてくれます。🔶桜の散り際が問いかける今を生きる姿勢桜の美しさは、その華やかさとともに、潔く散っていく儚さにあります。私たちは一日の終わりを迎えるたびに、確実に人生の最期へと近づいています。しかし、その終わりをただの「消滅」と見るか、お浄土への「往生」と見るかによって、今を生きる心持ちは大きく変わります。散りゆく桜を眺めながら、自らの命の尊さと、阿弥陀さまに抱かれた「必ず救われていく命」であるという喜びに出会ってほしい。桜という花は、そのような問いを私たちに投げかけているのです。🔶今週のまとめ良寛和尚の「散る桜 残る桜も 散る桜」という歌は、すべての命が等しく無常であることを教えています。九歳の親鸞聖人が詠まれた歌は、明日をも知れぬ命の儚さと、今この瞬間に仏道へ進む強い決意を示したものです。日本語には「散る」「こぼれる」「落ちる」など、花の終焉を慈しむ豊かな表現が備わっています。浄土真宗では死を「終わり」とせず、お浄土へ「往(ゆ)く(往生する)」という希望ある言葉で捉えます。桜の散り際を見つめることは、自らの命のあり方に向き合い、仏法に出会う尊いご縁となります。次回テーマは「花まつり」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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高千穂さんのご縁です。