【仏教とハワイ】──サトウキビ畑から広がるお念仏と支え合いの歴史

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【仏教とハワイ】──サトウキビ畑から広がるお念仏と支え合いの歴史

🔶ハワイ移民の歴史と「元年者」から「官約移民」へハワイにおける仏教の歴史は、アメリカに併合される以前のハワイ王国時代、サトウキビ農園の労働力として渡った日本人移民の歴史と深く重なっています。19世紀半ば以降、ハワイにはサトウキビ農園の労働力として、中国、日本、ポルトガル、プエルトリコなど、世界各地から多くの移民が渡るようになりました。1868年(明治元年)、約150人の日本人労働者がハワイへ渡りました。日本からハワイへの最初の組織的な集団移住とされ、明治元年に渡航したことから、彼らは「元年者(がんねんもの)」と呼ばれています。その後、日本とハワイ王国両政府の取り決めに基づき、1885年(明治18年)から政府公認の「官約移民」が始まりました。1886年(明治19年)には、日本人移民の待遇や保護などを定めた日布渡航条約が正式に締結されました。出稼ぎを目的とした移民には、広島、山口、熊本など、西日本の農村出身者が多く含まれていました。さらに1900年以降は、沖縄からも多くの人々がハワイへ移住しました。20世紀初頭には、日本人はハワイのサトウキビ農園労働者の中で、最大規模の集団となりました。🔶開教使の派遣とハワイ本願寺の誕生過酷な労働環境に置かれた移民たちの心のよりどころとして、1889年(明治22年)、浄土真宗本願寺派の僧侶・曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡り、日本人移民を訪ねて布教巡回を行いました。1897年(明治30年)には、西本願寺から里見法爾(さとみ・ほうに)師が開教監督として、今村恵猛(いまむら・えみょう)師が開教使として正式に派遣されました。1899年(明治32年)には、本願寺派としてハワイ最初の本堂となるハワイ本願寺が完成しました。これが、後の本派本願寺ハワイ別院へと発展していきます。当初、移民たちは日々の生活に追われ、仏教の教えに耳を傾ける余裕を持てないことも少なくありませんでした。その後、低賃金や厳しい労働環境を背景に労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通して、農園主側からも本願寺への理解が得られるようになり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。本願寺派の公式資料によると、現在、ハワイには32の寺院があります。また、幼児教育から中学校段階までのホンワンジ・ミッション・スクールと、2003年に開校した仏教系高校パシフィック・ブディスト・アカデミーが運営されています。パシフィック・ブディスト・アカデミーは、西洋諸国で初の仏教系高等学校とされています。🔶太平洋戦争の試練と日系社会のアイデンティティ1941年、真珠湾攻撃を契機に日本とアメリカの戦争が始まると、日本人・日系人社会の指導者と見なされた開教使や僧侶の多くが拘束され、アメリカ本土の抑留所へ送られました。ハワイでは、アメリカ本土西海岸のように日系人住民全体が一律に強制収容されたわけではありません。しかし、僧侶、日本語学校の教師、新聞関係者、地域の指導者などが拘束され、残された人々も厳しい監視や差別の中で生活しました。戦後、お寺の活動は再開され、「サンデースクール」と呼ばれる日曜学校や、ボーイスカウト、野球、バスケットボールのクラブチーム、太鼓グループなどの活動を通じて、日系人コミュニティと地域社会を支える文化的な拠点となっていきました。ハワイのお寺では、夏の「盆ダンス(Bon Dance)」やバザーなどの行事が今も盛んに行われています。寺院によっては、バザーで照り焼きチキンなどの料理を販売し、その収益を寺院の維持や地域活動に役立てています。日本の寺院とはまた異なる、地域に開かれた組織的な運営が行われているのです。戦時中、僧侶や日系社会の指導者の一部が抑留され、残された人々も大きな不安や差別の中で暮らしました。それでも、お寺を中心とした集いと盆踊りなどの文化を守り続けた歴史は、異国の地で生きる人々が、自らのルーツとアイデンティティを保つための大切な心の支えとなりました。🔶マウイ島大火災とラハイナ本願寺への支援2023年8月8日、アメリカ・ハワイ州マウイ島で大規模な山火事が発生し、歴史ある港町ラハイナは壊滅的な被害を受けました。この火災によって、ラハイナ本願寺では、本堂、学校建物、事務所、社会活動用ホール、台所、開教使住宅などが焼失しました。開教使や現地の門信徒、地域の人々も避難を余儀なくされました。復興には長い時間を要しており、現在も息の長い支援が続けられています。同じお念仏の教えに結ばれた仲間として、日本からもハワイへ温かな支援の手を差し伸べ続けることが求められています。現在では、日本にルーツを持たない現地出身の僧侶も数多く誕生しています。また、本願寺派の開教活動は、ハワイだけでなく、アメリカ本土の西海岸を中心とする日系社会にも広がっていきました。言葉や国籍、文化が異なっても、お念仏のみ教えを中心に結ばれた人々のつながりは、グローバル社会における共生の姿を、私たちに示してくれています。🔶今週のまとめ【1】ハワイの仏教は、1868年に渡った「元年者」や、1885年から始まった官約移民など、サトウキビ農園で働いた日本人移民の歴史と深く結びついて発展しました。移民には広島、山口、熊本など西日本の出身者が多く、1900年以降は沖縄からも多くの人々が渡りました。【2】1889年、曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡って布教巡回を行いました。1897年には本願寺から正式な開教監督と開教使が派遣され、1899年にはハワイ本願寺の本堂が完成しました。これが後の本派本願寺ハワイ別院へと発展しました。【3】労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通じて本願寺への理解が広がり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。【4】真珠湾攻撃後には、開教使や日系社会の指導者の一部が拘束・抑留されました。戦後、寺院は活動を再開し、日曜学校、ボーイスカウト、スポーツ、太鼓、盆ダンスなどを通して、日系社会と地域社会を支える拠点となりました。【5】2023年8月のマウイ島山火事では、ラハイナ本願寺の本堂やホール、開教使住宅などが焼失しました。復興には長い時間を要しており、ハワイと日本の門信徒や関係者による継続的な支援が行われています。次回のテーマは「戦争と平和」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

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高千穂さんのご縁です。

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