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🔶降誕会の由来と激動の時代背景5月21日は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のご誕生をお祝いする「降誕会(ごうたんえ)」です。聖人は西暦1173年(承安3年)、京都の日野の里(現在の京都市伏見区)にて、日野有範(ひのありのり)卿の長男としてお生まれになられました。当時は平安時代の末期、平家が栄華を極める一方で、大火災や大飢饉、疫病といった自然災害が次々と都を襲った「末法の世」とも呼べる激動の時代でした。🔶比叡山での修行と六角堂の夢告親鸞聖人はわずか9歳で出家され、比叡山へと登られました。以来20年間にわたり、煩悩を断ち切り迷いを超える道を求めて懸命に修行に励まれましたが、どうしても真の悟りを見出すことはできませんでした。29歳の時(1201年・建仁元年)、聖人は比叡山を降り、京都の六角堂に百日間の参籠(さんろう)をされました。その95日目の暁、救世観音(くぜかんのん)の夢告を受け、導かれるように法然上人のもとを訪ねられたのです。🔶承元の法難と越後への流罪法然上人が説く「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の教えに出会われた聖人は、誰もが等しく救われる道に確信を得られました。しかし当時、この教えは既存の仏教界から異端視され、ついに1207年(承元元年)、「承元の法難(じょうげんのほうなん)」が起こります。後鳥羽上皇の怒りを買った法然上人は土佐へ(後に実質は讃岐)、親鸞聖人は越後(現在の新潟県)へと流罪に処されました。厳しい逆境の中でも、聖人はお念仏の教えを広め続けられました。🔶「非僧非俗」の歩みと恵信尼公との生活越後の地で、聖人は恵信尼(えしんに)公とご結婚されました。当時の僧侶にとって「肉食妻帯(にくじきさいたい)」は許されないことでしたが、聖人はあえて自らを「非僧非俗(ひそうひぞく)」、つまり僧でも俗人でもない立場に置き、民衆と同じ目線で生活を共にされました。食生活や家族を持つことが救いの妨げにはならないというその姿勢は、どのような環境に生きる人々であっても阿弥陀さまの救いから漏れることはないという、教えの真髄を体現されたものでした。🔶関東での布教と九十年のご生涯流罪が許された後、聖人は家族と共に拠点を関東(常陸国など)に移し、20年以上にわたって農民などの庶民にお念仏を伝えられました。その後、60歳を過ぎて京都へ戻られ、1263年(弘長2年)1月16日に90歳でそのご生涯を終えられました。聖人が好まれた「小豆(あずき)」にちなみ、現在も各地の寺院では法要の際に小豆粥やお赤飯が振る舞われています。どのような条件もつけずに「ありのまま」を救い取る阿弥陀さまの慈悲を説き続けた聖人の歩みは、今も多くの人々の心の支えとなっています。🔶今週のまとめ5月21日は親鸞聖人の誕生日を祝う「降誕会」であり、聖人が歩まれた激動の90年を偲ぶ大切な日です。比叡山での20年にわたる修行を経て、六角堂の参籠での夢告をきっかけに法然上人の教えに出会われました。念仏の禁止という「承元の法難」により流罪となりますが、逆境にあってもお念仏の教えを広め続けられました。「非僧非俗」を掲げ、結婚や肉食といった当時の常識を超えて、民衆と同じ目線で生き抜かれたのが親鸞聖人の特徴です。阿弥陀さまの救いは身分や職業によらず平等であるという教えは、今も変わらず私たちの日常に寄り添っています。次回テーマは「お寺の掲示板」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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高千穂さんのご縁です。